2018.10.29
”誰かに見られてる”と感じたい人々
~TV脳~
普段は皆同じものを着ている。(ペットボトルごみから機械が作ったナイロンとかレーヨンの混紡)(人が作った綿や絹や麻はそれぞれ特徴がある)(デザインは全部、洋服という労働者用作業着)
生誕や収穫や感謝ではなく、”見られてる”を感じたい人々を集めて商売にしていると、生誕や収穫や感謝を目的にそうしている人々からは、「彼らと相互理解は得られないだろうな」と直感的に思われてしまう。金儲けや、そもそも猿まねして騒ぐだけなのは失礼なのだ。
しかも感じたいだけの人々は、非日常の自分たち同士を見ることもせずに互いを見て見ぬふりをしていて、それは相互理解ですらなく単に仮装行列に居ながら、自分を孤独においていることに気づいてはいないようだ。
そのことが普段の”抑圧”からの一時避難行為であるというような、自身の内心にでさえ無関心でいる。
初詣に始まってクリスマスにケーキを食べるまで多くの日本人に見られる、中身のない商業イベントに誘導され、消費させられるだけの人々には信仰心はない。
日本の憲法20条では「政治と宗教の分離」を謳っている。
日本を除く先進国のほとんどは、国の宗教を持っているが、日本は上記のために信仰の自由はあるが政治から宗教への関与を禁じている。一般市民もほとんどは信仰というよりも慣習や文化的意味合いでの行事として参加するということのようだ。
政治が宗教に対して関与したり特権を与えてはならないということになっている。
宗教団体ではなく、個人はいかなる思想信条信仰心を持っていても自由であるし、そういった考え方を持って政治に参加することは自由であるとも書かれている。
国教を持っている国々は古代からずっと戦争を続けている。今も直接的に戦争をしている国は先進国に多い。日本は70年間”直接的”には戦争をしていない。(間接的には疑問だが)
政治と宗教を分離する。
崇高な理念であるが、これを不断の努力で成し遂げようと憲法はその前文で謳っている。
宗教は何かを崇拝するものである。個人であったり偶像であったり、形のないものに対してであったりする。しかしどの宗教も崇拝の対象が固定化されている。ユダヤ教は偶像崇拝ではないといってみてもダビデの星崇拝であり、崇拝の対象を変えることができないものが宗教なのだということもできる。
国教を持ち戦争を相変わらず続けている国々の潜在意識にある固定化され進歩や議論しない宗教が、無意識に戦争を続けさせているのだとすると、逆に多くの日本人のように行事のあるときにだけ自由に参加したりしなかったりでき、それは慣習としてであり信仰としてではないほうが、後に戦争呪縛に取り込まれる危険性は少なくなる。
個人崇拝であれ宗教は宗教だが、現人神から人間に、政治の都合によってまた現人神にさせられようとしている人権を持たない人が日本にはいて、そのことも憲法に謳われている。このことを私はこの国最大の矛盾であると思う。天賦人権説の天をどこに置いているのかという問いでもある。
ともかく、自分のしている行為に自身が意味を持たずに、流行だからとか、みんながそうするからとか、TVのCMやっていて面白そうだからとか、そういう感情的衝動的行為には必ず商業主義が待ち受けているということと、自分自身の動機や目的を考えずに仮装行列に参加しても癒しにもならず、帰って自分を孤独にするだけだし、普段の精神的抑圧(皆同じものを着て会社で仕事したり学校で勉強したり)からは解放されない。
解放されないどころか逆に権力によっての規制の口実にされている。
非日常を年に一度の仮装行列に求めても、頭の中が空っぽ(目的がない娯楽目的ですらない)で外側だけの仮装であり、日々日常の抑圧(内側への)から解放されようとしない限りは、あるいは同じものを着て職場や学校に行くことに(居眠りしてもサボっていても目立たない)ある種の安心感を持っているうちは、自分自身を抑圧から解放することはできない。
自分を理解しないと相手を理解できるはずがない。相互理解によってしか世界は平和にならない。
さて、誰にでも電車の中や公共の場で”視線を感じる”ことがあるだろう。感じる方向を見ると誰かと目が合う。
このことをコンピュータで解明できるだろうか。
誰も解明することができないが、現に事実としてある。誰にでも経験があるだろう。
このことは人間同士だけでなく、動物や昆虫や魚とかカエルとか花や樹木などにも通ずるこは知っているだろうか。
誰でもこれら自然と疎通できるのに、そのことに気づかないで、孤独と感じ、下らないものに誘導され、それでも満たせない癒やせないでいる。周囲から自然が消えて久しいし、自然をTV画像から、あたかも自分の身近にあるものとして刷り込まれているからなんだと思う。自然は脳みそだけでは感じないもの。
渋谷や横浜(観光地)に、自然は皆無といっていい。あるようで無い。有るように感ずるのは”記号としての自然が配置されている”だけ。
記号としての自然は、いつもいつもTVやスマホから刷り込まれているから、記号を見ただけで自然を感ずるような気がするだけ。自然から受け取っているものは微かだから、TVやスマホから受ける刺激の強い自然もどきや誇張された自然に慣れてしまった脳は実際の自然からは何も感じない。
大昔に戻るべきだと言いたいわけではなく、極端にバランスを欠いてしまっていると言いたいのだが、極端にバランスを欠いた社会で生まれ育ち生活していると、そのことを理解することができない。
特に若者世代をプアジェネレーションと以前書いたのはその為だ。だからと言って彼ら若者にはなんの責任もない。
さてどうするか・・・
写真は昨日の夕暮れ時、エリスマン邸裏の斜陽。
写真が下手で伝わらないかもしれないが、この美しさを生きているうちに目に焼き付けておきたいと心底思った。久しぶりにそういう感慨に耽りながら撮影したのだった。
自分の外側(見た目)は内側から現れるものであり、敢えて装うのは内側を磨くためなんだし、中身のない仮装などなんの意味もなさない。
内側は感性と言い換えられるが、感性は誰でも磨くことができる。一番の方法が自然と接して感じること。
TVスマホから受ける強い刺激や毒性の強い刺激で麻痺した感覚を取り戻すこと。
ここには鳥たちもたくさん住んでいる。心の中で話しかけてみるといい。少しずつ上達できる。誰でもできるはずだ。
ジェットコースター
http://honjin-1.com/OtherSide/archives/35
Even In “Revolutionary Countries”, Mass Media Is Still In the Hands of The Right
2018-11-04 19:07:38
2018-10-29 12:14:17
他ブログより転載