Something New

哲学なんて簡単なものであるべき

銀行に行きあるいはコンビニで、ATMからカネを出したり入れたりすることが

誰にでもある

 

電車に乗るための切符を買うために券売機にカネを入れたりお釣りをもらったり

することも誰にでもある

 

ない場合、自分の人生を考え直す機会を別の機械によって逃していると考えていい

 

例えば、9千円カネを入れたいために1万円札を1枚入れ、機械によっては入れたい

金額を聞いてくるものがあり、別の機械は入れる手続きの後、再度出す手続きを要求

するものがある

 

この機械の違いがつまり「作り手のポリシー」ということになる

 

あるいは、預金カードを取り忘れないように自動的に忘れないような順を踏んでいる

機械もある

 

これが「作り手のポリシー」なのだ

 

しかし使う者がその違いについて、その意味を考えないとき、無関心なとき

そのポリシーは生かされないことになる

 

ポリシーというものが一般に普及するまでに、相当の時間がかかることは確かだ

 

その最先端を行くものが、いわゆる芸術家のポリシーであると勝手に考えている

そしてそれはいずれ世界を変える価値観となっていくことは、実はその芸術家の

知名度と比例していかざるを得ないのだ

 

そのポリシーから得たものを企業が受け取るのか、あるいはプロジェクトのメンバーが

受け取るのか、それとも起案した個人が受け取るのか

 

経済とはそのことを突き詰めなければ、まずならないはずなのだが

そうはなっていない

 

その受け取り方も問題としなければならないはずだ

 

しかし芸術家に限って言えば、彼らは全て個人であり

そういう意味での孤独を持っている

孤独という言葉は、良い意味と悪い意味とがあるのだが

双方の意味の間には、例えるなら海の深度の違いや

空でいう高度の違いがあり、深いから良いことには一概にはならず

高いから良いということにも一概にはならないのだ

 

難しい口調で書くのは慣れれば容易いが、誰にでも理解できるように

書くことは難しい

 

この、「誰にでも理解できるように書く、あるいは描く、あるいは撮る」

ことが私のポリシーに完全に付随するものなのだと、現時点では言い訳がましく

書いておきたい

 

分かり易くすることが最も最速の普遍化の手段だが、同時に背負うものについて

受け取る側がどう感ずるか

そのことを解き明かすことができればとも思う次第だが、普遍化する時間と同様に

普遍化してから鏡を通して観察するしか方法がない

 

そのことを自覚できずに芸術といういわば時代のカタワの感覚を、すぐに換金したい

と思っている自称芸術家がどれほど多いことか

 

定価を支払い見るものが芸術の価値、というのは間違っていることは明らかだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017/11/14   jannmu
タグ:自然

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