Something New

jannmu

A shoe  「いわゆる神」

Oh me god !

 

 

 


Oh me god !

 

In the midst of the human individual mind " person " is dwells 

 

It is not a so-called God

 

The so-called God is not an anthropomorphic God,the so-called God is Humans have replaced " person " in God 

 

There is faith there

 

 

Society is a shoe

 

Religion is also at shoe

 

democracy is also shoe too

 

 

We have only two spiculum, so is better the hand of shoes less

 

 

 

 

Oh me god !

 

人間ひとり一人の心の中に「いわゆる神」ではなく”人”が宿っている

 

「いわゆる神」は神を擬人化したものではなく、「いわゆる神」は人間一人ひとりにそれぞれ宿っているこの”人”を擬神化したものである

 

そこに信仰がある

 

社会は靴である

 

宗教も靴である

 

民主主義も靴である

 

足は二本しかない、だから手持ちの靴は少ないほうがいい

 

 

 

 

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2019/08/10   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩 , SPACE

既存メディアこそが権威主義

ブログを書き始めたのとちょうど同時に、あちこちの美術館で

絵画その他の作品を鑑賞することを自然と覚えた。

 

ブログ記事は何万だか何十万だか数えきれない。美術館や街の

ギャラリーで鑑賞した美術作品も数えきれない。

 

芸術と民芸の違いは理解できた。

 

民芸と芸術の違いを理解できない作家は民芸作家と呼ぶべきなの

だが、芸術家が悲しいかな食うために民芸品を作らなければなら

ないこの国は、民主主義の多数決でいえば民芸品以下の眼力しか

ない者で溢れていて、TVやスマホや駅構内のポスター民芸いをア

ートだと思い込まされている。

 

アンディー・ウォー・ホールという作家が過去いた。

彼が愛したバンドであるベルベット・アンダーグラウンドのアル

バムジャケットには黄色いバナナが描かれている。

それを下地にして私は「Make my day!」と写真でやった。

 

ニクソンやモンローその他、アメリカの当時をサイケデリックに

表現したが、本当に彼が表現したかったのは何なのだろうか。

シルクスクリーンは、いくらでも刷れる手法だ。

 

それは新聞同様に多数に色と線をプレスして行く作業だが、その

作業は、ドル印刷にも同様なのだ。

それでは果たして、1ドル札とアンディーの作品とどちらが絵画

好きの心に残っているだろか。それが価値であると彼は多分言い

たかったのかもしれない。

そして既存のメディアに載せないということはどうだったのか。

当時、ビデオ録画がちょうど開発された時期である。

 

しかしビデオがTVという既存メディアに吸収されていくという

過程を彼は想像できなかった。だから彼の作品はいまや陳腐化

してしまったのだと私は思う。

 

美術館で数えきれないほどの絵画を鑑賞した。いちまいの絵画

と対話する時間は知っての通り他の者とはケタが違う。

 

私は世界で初めて「ゲルニカの解釈を変えた」

ゲルニカはちょび髭の男の肖像画であるように私には見える

 

 

当時の画家はジャーナリストとデザイナーとマスメディアとを

兼ねていた。情報通なのである。酒場からも知識人からも王族

からも情報を得て作品に埋め込んでいった。

誤解を恐れずいうならば、多分彼ピカソはヒトラーが実はユダ

ヤ人であることを知っていた。

 

ヒトラーは一般大衆車であるワーゲンとアウトバーンという高

速道路を作って金をばら撒いた。第一次大戦で破産状態のドイ

ツという国がどうしてそうしてカネ(マルク)を国民にばら撒

くことができたのだろうか。只々マルクを印刷しただけなのだ。

私はそう思う。

 

今の日本は、世界はどうだろうか。

 

知識人、学業も分業化されて細分化されているが、どれひとつ

とっても確立された学問などどこにもない。特に経済学や物理学

は、未知の部分が多くしかもそれらが各国のセキュリティーと

され、国費を投じて軍事化技術に投入されている。

確立されていない学問が軍事技術の根底なのだから、その学問や

技術を地球上で実験するための戦争が止まないのは当たり前な

のだ。

哲学でさへ、地動説以来議論を失った。アインシュタインもまた

ゼロという仮定を解くことができずに、その後の物理学は解明さ

れない仮定を原点に進むという悪循環に陥っている。

肉を食らう生臭坊主はベンツにのってステーキ屋の鉄板に女体を

盛り不敵な笑いを金に換え、どこぞの政治政党に還元して保身ば

かりを考えている。墓地はいまや不動産物件として金儲けの道具

と化している。

 

誰も物を申さない。

 

MODERNの後に何も生まれないのはメディアである作家が手抜き
をしてメディアに乗ってしまったから

POSTMODERNやNEOMODERNなどという言葉はそもそも

嘘なのだ

 

MODERNの後の新しい言葉が生まれないのはMODERNの模倣

から脱却できない言い訳に過ぎない

 

私はその指針を作ったと自負している

そしてMODERNの後に来るのは当然のこととして

FUTUERであるべきだと思っている

そこにはこれまでの神は一切いない

芸術家もそのことを隠す必要はない

 

私は雷の刺激する感覚を信ずるが

それこそが宗教観というものだ

自然への畏怖であり、戦争ばかりしている神へのタブーなど

私は持たない

 

 

そういう実態をピカソは当時見抜いていたはずだ。

ゲルニカに描かれた部品は、ユダヤを象徴するような別の絵画の

パーツばかりだが、それを一歩引いて全体を見渡すと、ヒトラー

の肖像なのだ。

 

「神は現実的な存在として今の今も、そこに存在する」ピカソのゲルニカに秘められた証拠と証明byはやし浩司https://www.youtube.com/watch?v=e7bP3IVxSDc

 

 

こうして絵画に対する洞察力も近視眼的になり、専門的分割化さ

れている。

 

 

私は芸術家そのものがメディアであるべきであるし、それはマス

メディアとは全く違う価値観を創造するものだと信ずる。

であるから、民主主義に欠かせない選挙であってもそこにマスメディア

を疑ってかかるという現象がもう既に勃興しているというのが

私の考え方である。

 

日本での教育で、世界史と日本史が分けられているのはぜかのか。

どうして日本人はアジア人を蔑視するのは平気だが欧米人に卑屈な

コンプレックスを持っているのか。

以前からここで訴えている「日本人の島国根性」とは何か。排他的

な慣習と村八分の同一性と、選挙時におけるあるいは独自の意見を

持つと居住地域でなにやら住みずらい現象が起こるのはなぜか。

それについて延々と、あらゆる角度からスライスした意見を述べて

きている。

そのことが、日本よりも外国人に多く受け入れられているというのは

事実で、私はそのことを日本人として恥ずかしく思う

 

そして私は生温い風呂に入り続けるという現状を受け入れるわけには

いかないということもあり、全国を行脚しているのである。

 

それは私もメディアであるという自覚だが、周囲の人々が私事に利用

することしか考えていない(特に行政)のが哀しいわけではある。

 

しかし、有無を言わさず、ラジオが終わったようにTVも終わるのだ。

「双方向メディア」をユーザーが理解するならば、必ず変わる。

 

そこでしかし、絵画がメディアならどうしてラジオやTVのごとく

終わっていないのかという問いがある

 

ラジオもTVもスマホどころか電話すらない当時の世界、しかも

文字を読める人もごく一部の人に限られていた。

だからこそ、当時の人々の審美眼というのは現代人よりも優れて

いたとは言えまいか。

 

当時の絵画や彫刻は現存するが、現代人が描いたものや彫った

作品は消費財として次から次へと作られては消えていくのは周知

の事実である。それは建築物でも同様だ。100年後を見据えたような

建築物あるいはそういった建築思想は日本には皆無といっていい。

 

だからそういう意味合いからいうならば、現代絵画や彫刻その他の芸術も

実は終わっている。目先のカネを生むかどうかが芸術あるいは芸術家の

評価である

 

私はそういうものにもアンチテーゼを大声で唱えようと思う

メディアであるはずの芸術家が既存メディアに乗って何かを伝えようつする

ことに何ら疑問も持たない感覚麻痺に対しても意義を唱えようと思う

 

権威主義であり、権威という化けの皮を剥がすと思想など何もない

 

commercialism and narcissism

 

 

既存メディアを駆使した此れまでの既得権や権威主義的なものが終わる

そして新たな何かが既に始まっている。

 

世界がそれを実感しているが、それを無闇に否定しているのが大手既存

危篤権益メディアなのである。

 

 

 

気づけばそれほど難しくはないはずだ。

 

 

 

例えばポピュラーな詩はずっと以前に書かれたものしかない。

それらの詩は現代人の生活には馴染まない。

たとえ哲学的、啓示的てきな一片の言葉があったとしても。

 

私は詩を書いた。

これも私の詩の一部。

しかし世の金持ちやいわゆるセレブに敢えて向けたものではない。

 

なぜ私はこの仕事をここから収入を得ることなしに続けられるのだろうか。

続けているのだろうか。

 

読者はそのことを疑問に思ったことがあるだろうか。

 

 

ポピュリズムという言葉が日本やアメリカでは問題視されている。

その意味合いが曖昧であるから

曖昧はこれまでの詩人の得意とするところだが

曖昧を壊す詩を書いてきた

詩も変化を求められているが

詩はあくまで詩であり続けることが私の美意識

だからあくまで曖昧でない、

新しい詩を書きたく思う

 

リッチな人々よりも、有り余った時間を持て余しているような人によりも

その真逆で生きている人々にこの詩を届けたい

だから私はポピュラーになることをメディア的思考で目指したのだ

 

それをサクセスとかセレブという言葉本来の意味からいえば間違いはない

しかし世界で虐げられている人々にこの心からの詩を届けるために

私のポピュリズムは、偏見的なものによる妨害に負けるわけにはいかない

 

いつかこの歌が、名もない人々に届くように私はこれからも書き続けるだろう

 

 

私にとり、知名度という言葉よりも、名も知らない人々が作者も知らずに

この詩を口ずさむような世界が私の理想なのだから

 

個人的な捌け口のような詩は若者に任すとして

私はそういった人々の代弁を詩を通して、少しだけ美化して伝えるに過ぎない

 

 

 

 

 

 

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2019/07/25   jannmu
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Dirty story

出産には立ち会えるというのでその病院を選んだ。

 

そのころ流行りの8ミリビデオハンディーカメラを購入して、妻を全裸にしお腹の出具合を毎月映像化した。

もちろん出産現場にもカメラを持ち込むつもりでいたが、直前になり病院に立ち会いを拒否された。いまはその理由をなんとなく理解できるようになったが、それでもとても理不尽なことだと思う。

 

 

 

ネットでアチコチ買い物をするようになると、どうしても銀行振り込みが多くなる。

当時土日でも24時間入出金や他行あて振り込みでも一切無料という銀行があったので、私はその銀行に口座を設けた。

 

数年後には振り込みは月に5回までとなり、その後3回となり1回となった。サービスの低下だが、やがて出金にも手数料を取るようになったので、その口座を使わないことにして全額おろしてしまったので、現在その口座残高はゼロである。

 

誘い文句を後から反故にするというのがこの20年くらいで流行していて、消費者はいつもその理不尽に従わされている。

 

政治でも選挙の際の公約によって投票したにもかかわらず、当選すると平気で反故にする政治家が増殖している。悪しき日本の姿があの後に生まれた子供たちにはどういう風に映っているのだろうか。

 

 

 

無事生まれた赤ん坊は男の子であった。病院の一室に並んだいくつかの保育器をガラス越しに順番に見ていくと、「!!!」この子だと思い、足首につけられている名札を見るとやはりなのだった。

 

そういった感覚をAIとやらに理解できるかどうか私には疑問だ。識別はできたとしても感覚そのものを理解することはできないだろう。

 

 

本来ならば妻の労をねぎらってからなのかもしれないが、出産の知らせを聞き真っ先に向かったのは新生児保育室だった。そのあと病室の妻に、「よく頑張った!でかした!」と礼を言った。とても嬉しく幸せな瞬間だった。人生にはそういう瞬間が誰にでも何らかのかたちで訪れるのではないのだろうか。少なくともそういう社会を誰もが望んでいるはずだと思うのだ。

 

数日後に妻と子は家に戻ってきた。正確には子の場合、初めて来たというべきか。

年の瀬も近づいた寒い日だった。彼の出産予定日は12月25日だったのだが20日ほど予定よりも早く生まれた。

 

それから彼に会いに病院にはこれなかった親類が何人か来てくれた。小さな彼を抱き上げて皆幸せそうな顔をする。なんと不思議な光景なんだろうと思うのと、彼はとても幸せだとも思うのだった。

 

妻はもともと手に職を持っていて仕事をしていた。出産から3か月は休んでいたのだが家に籠っているたちではないようで、働きだした。土日のアルバイトから徐々に体を慣らしていった。

 

そして私は子育てを当然のごとく分担していくことになる。いま思えば彼女の体慣らしは私にとっての子育てへの予備期間のようなものだった。

 

子育てというと大げさだが、ミルクを作ってやることやそれに付随すること、オムツを変えること、泣いたらあやしなだめること、寝かしつけることだが、私は不思議とそういったことに対して抵抗が全くないのだった。

 

とあるデパートに行ったときに、母親に買い物をさせて私はオムツを変えるために子供服やおもちゃ売り場のフロアにあるベビールームに入っていくと、父親はなぜか私だけだった。

ルームは乳とウンチの匂いで結構なものでもあるのだが、私には抵抗がないしあのときの母親たちも別に偏見を持っていなかったようだ。

 

夫婦ともに若干参ってしまうのは、夜泣きである。夜中に泣き出す赤子には正直参ったが、むずかる赤子のことだけではなく隣近所へのこともある。それが毎日続くのだからこれも結構なものなのだった。

そのときに体得した方法を伝授しておこう。

 

抱き上げた赤子の心臓と自分心臓を合わせるようにする。

文字通り「胸を合わせる」のだ。

そして泣く赤子の呼吸に自分の呼吸を合わせる。

これも文字通り「息を合わす」ということだ。

 

息があったところで意図的に少しずつ自分の呼吸を”ゆっくり深く”していく。あくまで徐々に。

「徐々に加減」は親子で調節して体得していくしかない。

この「徐々に加減」が上手くいくようになると、子供は泣き止みそしてぐっすりと眠りについてくれる。

しかしここでミルクが足りていることとオシメが濡れていないということが前提だ。

 

「徐々に加減」は自分の心臓の鼓動をゆっくりさせ、合わせた赤子の心臓と同期をとるような感覚だ。

徐々にゆっくりと呼吸を整えて心臓の鼓動も落ち着かせるということ。

このときに自分の呼吸音が赤子の耳に優しく聞こえるようなポジション取りの抱き方をすることも肝要だろう。

 

赤子が母親のお腹の中にいた時の環境に近づけてあげるということに尽きるかもしれない。

 

ママのために

ここに簡単に書いてあるので参考まで。

 

 

 

この物語はずっと、いや当分のあいだは続く。だからこの物語を汚したくないと思う。しかしこれから書くことがこの「命の物語」を汚すことになるとしたらと、私は少し躊躇しているが、冒頭を書き始める前から書くべきことはここにあるのだ。

 

 

 

 

 

広めの2DKのアパートは通りから細い路地を入り少し奥まったところに建っている。アパートの駐車場から車を出した時に、対向車が来るとすれ違うことができない細い路地だった。

夜になると人通りは途絶え、あたりは深と静まり返る。畳でいうと10畳ほどのダイニングキッチンの出窓の外は、真っ暗な路地がぼんやりと、薄明りの街灯に照らされている。

 

どういうわけかその年、このアパートよりももっと路地奥の空き地に建てられたプレハブは、年賀状集配のためのもので、郵便局がまだ民営化される前の郵政省管轄だった。

 

ある晩、まだ早い時間、8時か9時ころだったろうか。

路地に大型トラックが入ってきて出窓の前で止まり、奇妙なことにエンジンを吹かし始めた。3人家族が食事を済ませ、赤子がようやく寝付いたころだった。

 

その瞬間逆上した。殺意を覚えた。私は外へ飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 

   2008/8/18 12:20
   
   liar
   
   俺はきっと世界に嘘をつき
   世界はたぶん俺だけに隠し事をする
   下手な芝居
   筒抜けのささやき
   それらはいつも
   惑わせ、昂らせ、落ち込ませ、そそのかし、裏切る

 

 太陽や月、空に浮かぶ雲や優しい雨さえも、俺にとってはもう    リアリティーを失った    俺が持つ「夜行性動物の目」は残酷を日々映し出す

Lenny Kravitz - A New Door

https://www.youtube.com/watch?v=S8_zHYo6NYQ

 

 

 

 

神がもしも存在するならば、なんぴとたりにも嘘をつけない者であるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

「その後、息子」

 

既成概念や予備知識、能書きや取説なしに自分の感覚だけで、少なくとも

好き嫌いを自分勝手に決めて良いのが音楽やアート作品だが、人は広告に

流される。

 

物理的な広告の量であなたの好き嫌いが実は決定されている。それは量であ

る。

圧倒的広告量があなたの好き嫌いを、あなたの意志とは別に無意識に決めて

いる。あなたの脳は企業のサービスや商品宣伝広告に日々晒されていて、そ

れが正しいとか好きだとか思いこまされているが、あたかも自己責任におい

ての好き嫌いという情報空間に浸りきりにさせられている。

 

圧倒的な量の広告をTVラジオ新聞やその他都市空間に表示させることができ

るのは一体誰か、どういった企業なのか。上場大手という。

 

 

 

日本人は特に "異質" を嫌う傾向にある。"異質" なものは日本人には不安を

抱かせるのだろう。表面だけは個性を取り繕うのだが、それとてもどこかの

カタログにパターン化されているものに過ぎない。

 

ここで私個人と広告の関係について、ずっと自問してきたことに対してANSWER

が出始めた。

 

 

 

物書きは時空を超えて真実を伝えることができる。

私の言う物書きとは、小説家やジャーナリストとは違う。私の電子的な媒体を通した

記録文章は、人の日常のたぶんすべてを網羅しようとしている。とても欲張りなものだ。

それはまるで誰も全部を読み切れない聖書のような長編小説のようであり、しかし

短編オムニバスの寄せ集めではない。私を通して全てが繋がっている。

 

私は私の心以外の "感覚" という神以外の、潜在的神を排除する。

 

 

 

Answer to Love

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/24

 

 

 

 

外へ飛び出した。大型トラックのステップに上り運転席の窓越しに怒鳴りつけた。

運転手が窓を開けたなら殴りつけていただろうが、そうはならなかった。

 

冬の夜空に私の大きな声がとどろいた。

このアパートの他の住民や近隣にもこの声は届いただろう。

 

トラックはそろそろとプレハブに向かって動いていった。

 

私はこの運転手にではなく、郵便局に対して憎悪を持つようになった。

しかしそれは間違いだったと後に気づくことになる。

 

 

 

 

メロンパンの一日

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/38

 

 

 

「命」同士が愛しあい、新しい「命」を授かることによって親と子が誕生する。

親は子の「命」が「一番大切なもの」になる。

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/1

 

親と子はいわば同級生で、互いに互いから学ぶ存在なのである。

 

 

 

 

福島に巨大な地震が起きて大津波が襲いかかり、その数日後には原子力発電所が

爆発した。

その数年前からTVを見なくなっていた。コンセントから電源プラグを抜いたまま

の状態であった。

 

 

あの夜の騒音事件のころは多くの日本人と同じく、私は毎日仕事から家に帰ると

TVを見ていた。日本人はTV依存症であると私は思っている。

10年以上ずっとTVを一切見ないと、人と話をしたときに同じ事象に対する考えが

全く違うことに気が付くようになる。誰と話しても違うのだ。

 

TVという人為的に創作された情報を四角い画面に収めた空間が、日本人を共通の

何かに誘導・統制しているように感ずることができるようになる。

依存は誰にもあるようだが、TVだったり電子的なゲームであったりスマホであった

りするようだ。

 

彼らは麻薬常習者のようだ。TVやスマホがないと死んでしまうかのように、彼ら

の人生の貴重な時間を画面に集中させている。周りの景色や足元も見ず、居住する

都市が、落ち着かずにたった1年で変わっていくことを自らの目で確かめようとは

しない。

 

都市は人間そのものだが、彼らは生身の人間には興味がなく、四角い画面に映るも

のだけに興味を持つように何者かに誘導されているかのようでもある。

 

12月初旬に息子が生まれ歳が明けるとすぐに阪神淡路に巨大震災が起こった。

彼らの世代はそれ以降、何度の巨大災害を経験したのだろうか。そのたびにこの国は

安っぽい街並みに変わっていき、貧富の格差が開いていく。

 

 

 

 

 

 

 

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2019/07/01 memo   jannmu

えだまめ

一人っ子のえだまめは

遠い昔の砂漠の王子

 

二人っ子のえだまめは

オペラグラス

 

三人兄弟のえだまめは

お祭りの始まり

 

四人兄弟のえだまめは

罪意識

 

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2019/04/13   jannmu
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『テレビ報道の深刻な事態』

 

『テレビ報道の深刻な事態』.pdf

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2019/03/26   jannmu
タグ:memo

マゾヒストとサディスト

劇的なるものをめぐってⅡと劇場型政治

 

一昨年に早稲田で見たときのチラシが残っていて、朝食をとりながらつらつらと思い返す。

あのとき大隈講堂の2階席で見ていて、台詞は7・5調の日本語なのだが

意味はまったくわからず、それでも日本なので大体のストーリーは理解で

きた。

 

チラシは一見してSMだとわかるが、彼ら劇作家はSMという表現を使わない。

マゾヒストとサディスト、この両者を人は誰もが併せ持つ。TVのお笑い番組

などは典型的なSMだが、視聴者はそのことに気づかないでいる。意識が眠っ

ている状態を潜在化というのだろう。

 

潜在化させたまま、眠らせたまま、その意識を利用するやりくちは日本の

国営放送がずっと研究したたまものなのだろう。

 

演者は演出家によってSなりMなりの部分を開花させられる。役者というの

はそういう意味で怖い職業でもある。

 

そして観客はどちらかの目線でその劇を劇的に見るのだろう。観客もSであ

りMであるわけだ。

観客個人は劇にSを求め、あるいはMを求めどちらかの目線で感じ取るだろ

うが、全体としてSMを共有する場でもある。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」というのと

「私ったらすごいでしょう」というのだ。

 

 

私はあの上映を見ていて、自分の笑いのツボが他の観客とは全く違うことに

気付いたのだが、そういうたったひとつの笑い声があの会場の重苦しい、い

かにもアカデミックでお堅い感じを壊して、観客は自由に笑い出したようだ

った。

 

それはまるで、私ひとりがSであとの観客すべてがMであるような感覚なのだ。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」という書き様をこれまで意識的に避

けてきたのはそういう気の持ちようが嫌いだからだ。恰好が悪いし被害者意

識というのを背負うのが美的センスに(性分)合わないからだ。

 

そうだとしても私にもMな部分が大いにあるわけで、「私ったらすごいでし

ょう」の方が私は好きだとここで確定して、enterキーを押すことをわずか

に躊躇する理由は、それがたぶん私の言う「島国根性」であるからだと思

うのだ。

 

排他的な社会では、私をすごいものよりも、可哀想なものとして生きるほう

が受け入れられ易い。島国としての日本の社会にはこれが未だに残っていて、

あるいは故意に潜在化させられていて目覚めない。

若者が社会に対して生き辛さを感じているのはこういったことではないのか

と思う。

 

故意に潜在化させているのはたぶん主にTVで、報道からお笑い番組に至るまで、

根っこの部分にはそれがある。

それがある限り劇場型政治が続いてしまうのだろう。

 

しかしこのことに若者が気づいたならば、格好の悪いいまの日本の姿に美意識を

感じないことが息苦しさの正体であると、はっきりと理解することができるので

はないのか。

 

そして私はこの駄文を書き終えて躊躇なくenterキーを押してしまおうと思う。

 

 

 

参考チラシ

https://www.scot-suzukicompany.com/works/16/

 

 

それにしても、物書きや画家とか演劇関係者にナルシストが多いのはなんでなのか。

彼らは自己顕示欲と自己愛をどう分けて考えるのだろうかと思う。

自己主張ではあるが、日本のそれはなんだか格好が悪いので好きになれないのは

洋画ばかり見ているからか。

 

あと、可愛い子ブリッコとかカマトトなども同様の排他的島国で生きる術として

長年身についたものなんだろうか。

それは精神的な分裂を意味しているし、日本的な建て前と本音の乖離を嫌う私には

理解できないでいる。

 

 

 

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2019/03/07   jannmu
タグ: , 落書き , memo , SPACE

埋もれた言葉の断片(塵)の輝き

言葉は目に見えないから空に融けていってしまう

言葉を拾い集め紬だせば輝きだす

言葉は砂浜の貝殻のようであり砂の粒のようでもある

輝いている言葉を心に繫ぎ止める術はないものか

 

あたりまえの輝きが希少になるのは

相対的な歪みを持つからだ

 

あたりまえの美しさを見落としてしまうと

ただのごみ拾いになってしまう

 

あたりまえが当たり前でなくなることを経済というならば

私はそういうものを拒み続けたい

 

竜宮城の砂浜は目も眩むほど白く輝いていた

竜宮城での酒池肉林が砂の白さを濁らせた

濁った砂の箱に閉じ込められた自由が

濁った水の中を泳いでいる

 

その眩しさの記憶は

いまや大海の水に溺れようとしている

 

 

 

美ら海の砂塵

 

 

 

 

 

 

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2019/02/28   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩 , SPACE

手段と目的

 表現は思考の試作であり

 

 それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている

 

 奇をてらうものではなく

 むやみに壊すものでもない

 

 普遍化とはいまの時代

 

 少なくとも世界に一石を投じることであり

 

 表現はそのための手段である

 

 

                  2019.02.17 正午

 

 

 

 

 

 

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2019/02/20   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

偶然と必然と奇跡の関係性

奇跡という偶然の中に奇跡が起こるのは必然であり

 

奇跡なくして必然は起こりえない

 

その奇跡である偶然がこの星であり

 

ゆえに人間は必然だから

 

星の自然を制御しようとすれば必然によって人間は滅ぶ

 

 

自然から遠のく生活様式は旧時代的であり

 

人間の感覚や能力を退化させ必然以前の奇跡に閉じ込めてしまうだろう

 

 

この奇跡の星があるかぎり

 

自然以外のすべてが必然であるはずだ

 

 

天文学的に超越した確率でも

 

想像もつかないほど広大な宇宙のなかに

 

この地球があるかぎり奇跡は起こるのであり

 

この地球があるかぎり奇跡は必然である

 

そして必然の奇跡は「警告」でもある

 

 

 

s_Recovered_JPEG Digital Camera_129.jpg

 

 

 

2008/02/25

わがまま坊や

 


孤独を愛し

 


孤立を恐れ


調和を嫌い


今夜もアンバランスが浮遊する


俺が欲しいもの


望んでいるもの


俺が会いたいひと


力いっぱい抱きしめたいひと


それは愛
それは、
雪女      

 

投稿日 2008/02/25 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

2008/02/28

間引き

 


動物保護といいながら、数が多くなりひとの畑なんかを荒らしにきたり


ひとに害を加えるようになると、銃で撃つ、殺す


人間のエゴで消えてゆく命たち

 


俺たちはせめて、肉を食らい革を剥いで、その失われた命を余すことなく、これ以上無駄にすることなく、大切にしてゆかねばならない


人間の世界でも「戦争」という「間引き」が今でも行われている


全世界の人口は増え続ける。その一方で、他の動植物たちは、ひとつ、またひとつと
絶滅してゆく


仮に今、間引かなくてはいけない最終段階だとして、
間引かれるべきでない人間が、間引かれるべき人間に、間引かれている
本当に間引かれるべき人間はだれなんだ


そいつらの肉はきっと脂がのっていて、餌も最高のものを食っているだろうから、さぞかし美味いんだろう
それでもしかし、ひとが人の命を奪うなんてあり得ないこと。あってはならないこと
じゃあ、どうしたらいいんだ


人間以外の命とも、共存してゆくにはどうしたらいいんだ   

 

 

投稿日 2008/02/28 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu
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