Something New

2016年09月

究極のリサイクル

それが農業だ。

 

 

種が先か収穫が先かはこの場合議論にならない。

 

悠久自然サイクルの中に人類が生きるための、ごく僅かなスペースを自然から間借りしているに過ぎない。

これ以上でも以下でもない。

この悠久自然サイクルに生活サイクルやスタイルを近づけていく。本来はそうであったものが、ある時代を境に乖離していってしまった。

 

実は本来、資本の在り方も同様である。

資本は種の部分であり、それは次の収穫を人類が分かち合うためのもの。

一部が独占するものではない。

 

自然との調和の範囲内で農業を行うことは、自然破壊と隣り合わせだが、そこに「生命全てにおいての分かち合い」という考え方を取り込むことにより、新たな展開がある。逆に言えば、そうしなくては新たな展開は無いということ。

 

 

 

 

たばこ呑みが健康に気遣って禁煙をする。止められるならそれに越したことはない。

病院に行き、禁煙者同士慰めあいサークルなんかにも通ったりして、病院でたばこより高価なニコチンパッチを買わされて、結局タバコを止められなかったらどうなるのだろうか。

ニコチンを肺から摂取すれば肺がんの恐れがあるとたばこのパッケージには書かれているが、ニコチンパッチで皮膚から摂取するとどういった害があるのかを医学は説明しない。ニコチンが害を及ぼすのは、脳細胞なのではないのか。

 

 

 

ニコチン依存とアルコール依存の違いを深く考える必要がある。

 

 

2016/07/19  13:34

 

 

 

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2016/09/18   jannmu

『おとなは、みんなうそつきだ!』

おとうさんも、おかあさんも、うそつきだ!

 

おとうさんやおかあさんは、ぼくたちわたしたちよりもはやくおきて、ぼくたちわたしたちをおこしてくれるけれど、がっこうにちこくするからというりゆうだけ。

そのときにおとうさんは、わいしゃつにねくたいをしめながらおはようといい、おかあさんはちんしたあさごはんをだしながら、しゅくだいやったのときく。

ぼくたちわたしたちのきもちはきいてくれない。

 

おとうさんのわいしゃつは、おかあさんが、くりーにんぐにだすけれど、おとうさんもおかあさんもあいろんをかけたことがない。

がっこうのかえりみち、ちょっとよりみちしてくりーにんぐやさんのおじさんが、おしごとをしているようすをみた。

わいしゃつのくりーにんぐをするときにはらうりょうきんは、おしごとのたいへんさをしらないとわからないはずだけど、おとうさんもおかあさんもあいろんをかけたことがない。

 

ぼくたちわたしたちは、がっこうでおえかきのじかんに、せんせいがきめたてーまでえのぐをよういするけれど、おとなのことばでは「けいもうぽすたあ」というらしい。

「まなーをまもろう!」とか「ぽいすてやめよう!」とか「かわをきれいに!」とか「みずをよごさないで!」とか「しぜんをまもろう!」とか。

ぼくたちわたしたちは、おとなたちがだれも、だれひとりそのことをまもらないことをしっている。
しっているけれど、えをかかされる。

 

そういうえをかくと、ぼくたちわたしたちも、うそつきなおとなのなかまいりになるみたいでとてもいやだけど、おとなたちは、そういうぼくたちわたしたちのきもちをまずはじめにきこうとしてくれない。

しかたなくぼくたちわたしたちは、うそつきおとなのまねをして、いつのまにかなかまいりさせられてしまう。

とてもいやだけれど、ぼくたちわたしたちがおとなになったときには、たぶんわすれてしまっているんだろうなとおもう。
そういうのが、とてもいやだとおもう。

 

このまえ、どうきゅうせいのきょうだいがかよっている、ようごがっこうにいったら、ろうかにはってあったたくさんのえが、ないていた。あんなにないているこどものえをはじめてみたのでおどろいた。
おとなたちはどうしてあんなにかなしいそうなえばかりはることができるんだろうかと、とてもふしぎにおもった。

きょうしつでかいたえやでんしゃやばすのなかにはってあるえとはぜんぜんちがうのに。


おとなたちは、みんなうそつきだと、おもった。

あとからしったけど、あいろんのことをぷれすとえいごではいうらしい。

 

 

夕べ見た夢のひとこま。

とてもイタイ夢だった。


夏の終わりころ 9月2日

 

 

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2016/09/09   jannmu
タグ:遠足日記
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