Something New

2019年7月1日

Dirty story

出産には立ち会える病院というのでその病院を選んだ。

 

そのころはやりの8ミリビデオカメラを購入して、妻を全裸にしお腹の出具合を毎月映像化した。

もちろん出産現場にもカメラを持ち込むつもりでいたが、直前になり病院に立ち会いを拒否された。いまはその理由をなんとなく理解できるようになったが、それでもとても理不尽なことだと思う。

 

ネットでアチコチ買い物をするようになると、どうしても銀行振り込みが多くなる。

当時土日でも24時間入出金や他行あて振り込みでも一切無料という銀行があったので、私はその銀行に口座を設けた。

 

数年後には振り込みは月に5回までとなり、その後3回となり1回となった。サービスの低下だが、やがて出金にも手数料を取るようになったので、その口座を使わないことにして全額おろしてしまったので、現在その口座残高はゼロである。

 

誘い文句を後から反故にするというのがこの20年くらいで流行していて、消費者はいつもその理不尽に従わされている。

 

政治でも選挙の際の公約によって投票したにもかかわらず、当選すると平気で反故にする政治家が増殖している。悪しき日本の姿があの後に生まれた子供たちにはどういう風に映っているのだろうか。

 

無事生まれた赤ん坊は男の子であった。病院の一室に並んだいくつかの保育器をガラス越しに順番に見ていくと、「!!!」この子だと思い、足首につけられている名札を見るとやはりなのだった。

 

そういった感覚をAIとやらに理解できるかどうか私には疑問だ。識別はできたとしても感覚そのものを理解することはできないだろう。

 

本来ならば妻の労をねぎらってからなのかもしれないが、出産の知らせを聞き真っ先に向かったのは新生児保育室だった。そのあと病室の妻に、「よく頑張った!でかした!」と礼を言った。とても嬉しく幸せな瞬間だった。人生にはそういう瞬間が誰にでも何らかのかたちで訪れるのではないのだろうか。少なくともそういう社会を誰もが望んでいるはずだと思うのだ。

 

数日後に妻と子は家に戻ってきた。正確には子の場合、初めて来たというべきか。

年の瀬も近づいた寒い日だった。彼の出産予定日は12月25日だったのだが20日ほど予定よりも早く生まれた。

 

それから彼に会いに病院にはこれなかった親類が何人か来てくれた。小さな彼を抱き上げて皆幸せそうな顔をする。なんと不思議な光景なんだろうと思うのと、彼はとても幸せだとも思うのだった。

 

妻はもともと手に職を持っていて仕事をしていた。出産から3か月は休んでいたのだが家に籠っているたちではないようで、働きだした。土日のアルバイトから徐々に体を慣らしていった。

 

そして私は子育てを当然のごとく分担していくことになる。いま思えば彼女の体慣らしは私にとっての子育てへの予備期間のようなものだった。

 

子育てというと大げさだが、ミルクを作ってやることやそれに付随すること、オムツを変えること、泣いたらあやしなだめること、寝かしつけることだが、私は不思議とそういったことに対して抵抗が全くないのだった。

 

とあるデパートに行ったときに、母親に買い物をさせて私はオムツを変えるために子供服やおもちゃ売り場のフロアにあるベビールームに入っていくと、父親はなぜか私だけだった。

ルームは乳とウンチの匂いで結構なものでもあるのだが、私には抵抗がないしあのときの母親たちも別に偏見を持っていなかったようだ。

 

夫婦ともに若干参ってしまうのは、夜泣きである。夜中に泣き出す赤子には正直参ったが、むずかる赤子のことだけではなく隣近所へのこともある。それが毎日続くのだからこれも結構なものなのだった。

そのときに体得した方法を伝授しておこう。

 

抱き上げた赤子の心臓と自分心臓を合わせるようにする。

文字通り「胸を合わせる」のだ。

そして泣く赤子の呼吸に自分の呼吸を合わせる。

これも文字通り「息を合わす」ということだ。

 

息があったところで意図的に少しずつ自分の呼吸を”ゆっくり深く”していく。あくまで徐々に。

「徐々に加減」は親子で調節して体得していくしかない。

この「徐々に加減」が上手くいくようになると、子供は泣き止みそしてぐっすりと眠りについてくれる。

しかしここでミルクが足りていることとオシメが濡れていないということが前提だ。

 

「徐々に加減」は自分の心臓の鼓動をゆっくりさせ、合わせた赤子の心臓と同期をとるような感覚だ。

徐々にゆっくりと呼吸を整えて心臓の鼓動も落ち着かせるということ。

このときに自分の呼吸音が赤子の耳に優しく聞こえるようなポジション取りの抱き方をすることも肝要だろう。

 

赤子が母親のお腹の中にいた時の環境に近づけてあげるということに尽きるかもしれない。

 

ママのために

ここに簡単に書いてあるので参考まで。

 

 

 

この物語はずっと、いや当分のあいだは続く。だからこの物語を汚したくないと思う。しかしこれから書くことがこの「命の物語」を汚すことになるとしたらと、私は少し躊躇しているが、冒頭を書き始める前から書くべきことはここにあるのだ。

 

 

 

 

 

広めの2DKのアパートは通りから細い路地を入り少し奥まったところに建っている。アパートの駐車場から車を出した時に、対向車が来るとすれ違うことができない細い路地だった。

夜になると人通りは途絶え、あたりは深と静まり返る。畳でいうと10畳ほどのダイニングキッチンの出窓の外は、真っ暗な路地がぼんやりと薄明りの街灯に照らされている。

 

どういうわけか、その年このアパートよりもっと路地奥の空き地に建てられたプレハブは、年賀状集配のためのもので、郵便局がまだ民営化される前の郵政省管轄だった。

 

ある晩、まだ早い時間。8時か9時ころだったろうか。路地に大型トラックが入ってきて出窓の前で止まり、奇妙なことにエンジンを吹かし始めた。3人家族が食事を済ませ、赤子がようやく寝付いたころだった。

 

その瞬間逆上した。殺意を覚えた。私は外へ飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 

   2008/8/18 12:20
   
   liar
   
   俺はきっと世界に嘘をつき
   世界はたぶん俺だけに隠し事をする
   下手な芝居
   筒抜けのささやき
   それらはいつも
   惑わせ、昂らせ、落ち込ませ、そそのかし、裏切る

 

 太陽や月、空に浮かぶ雲や優しい雨さえも、俺にとってはもう    リアリティーを失った    俺が持つ「夜行性動物の目」は残酷を日々映し出す

Lenny Kravitz - A New Door

https://www.youtube.com/watch?v=S8_zHYo6NYQ

 

 

 

 

 

 

 

神がもしも存在するならば、なんぴとたりにも嘘をつけない者であるはずだ。

 

 

「その後、息子」

 

既成概念や予備知識、能書きや取説なしに自分の感覚だけで少なくとも

好き嫌いを自分勝手に決めて良いのが音楽やアート作品だが、人は広告に

流される。

 

物理的な広告の量であなたの好き嫌いが実は決定されている。それは量であ

る。

圧倒的広告量があなたの好き嫌いを、あなたの意志とは別に無意識に決めて

いる。あなたの脳は企業のサービスや商品宣伝広告に日々晒されていて、そ

れが正しいとか好きだとか思いこまされているが、あたかも自己責任におい

ての好き嫌いという情報空間に浸りきりにさせられている。

 

圧倒的な量の広告をTVラジオ新聞やその他都市空間に表示させることができ

るのは一体誰か、どういった企業なのか。上場大手という。

 

 

 

日本人は特に "異質" を嫌う傾向にある。"異質" なものは日本人には不安を

抱かせるのだろう。表面だけは個性を取り繕うのだが、それとてもどこかの

カタログにパターン化されているものに過ぎない。

 

ここで私個人と広告の関係について、ずっと自問してきたことに対してANSWER

が出始めた。

 

 

 

物書きは時空を超えて真実を伝えることができる。

私の言う物書きとは、小説家やジャーナリストとは違う。私の電子的な媒体を通した

記録文章は人の日常のたぶんすべてを網羅しようとしている。とても欲張りなものだ。

それはまるで誰も全部を読み切れない聖書のような長編小説のようであり、しかし

短編オムニバスの寄せ集めではない。私を通して全てが繋がっている。

 

私は私の心以外の "感覚" という神以外の潜在的神を排除する。

 

 

 

Answer to Love

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/24

 

 

外へ飛び出した。大型トラックのステップに上り運転席の窓越しに怒鳴りつけた。

運転手が窓を開けたなら殴りつけていただろうが、そうはならなかった。

 

冬の夜空に私の大きな声がとどろいた。

このアパートの他の住民や近隣にもこの声は届いただろう。

 

トラックはそろそろとプレハブに向かって動いていった。

 

私はこの運転手にではなく、郵便局に対して憎悪を持つようになった。

しかしそれは間違いだったと後に気づくことになる。

 

 

メロンパンの一日

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/38

 

 

 

「命」同士が愛しあい、新しい「命」を授かることによって親と子が誕生する。

親は子の「命」が「一番大切なもの」になる。

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/1

 

親と子はいわば同級生で、互いに互いから学ぶ存在なのである。

 

 

 

 

福島に巨大な地震が起きて大津波が襲いかかり、その数日後には原子力発電所が

爆発した。

その数年前からTVを見なくなっていた。コンセントから電源プラグを抜いたまま

の状態であった。

 

 

あの夜の騒音事件のころは多くの日本人と同じく、私は毎日仕事から家に帰ると

TVを見ていた。日本人はTV依存症であると私は思っている。

10年以上ずっとTVを一切見ないと、人と話をしたときに同じ事象に対する考えが

全く違うことに気が付くようになる。誰と話しても違うのだ。

 

TVという人為的に創作された情報を四角い画面に収めた空間が、日本人を共通の

何かに誘導・統制しているように感ずることができるようになる。

依存は誰にもあるようだが、TVだったり電子的なゲームであったりスマホであった

りするようだ。

 

彼らは麻薬常習者のようだ。TVやスマホがないと死んでしまうかのように、彼ら

の人生の貴重な時間を画面に集中させている。周りの景色や足元も見ず、居住する

都市が、落ち着かずにたった1年で変わっていくことを自らの目で確かめようとは

しない。

 

都市は人間そのものだが、彼らは生身の人間には興味がなく、四角い画面に映るも

のだけに興味を持つように何者かに誘導されているかのようでもある。

 

話は前後するのだが、12月初旬に息子が生まれ歳が明けるとすぐに阪神淡路に巨大

震災が起こった。

彼らの世代はそれ以降、何度の巨大災害を経験したのだろうか。そのたびにこの国は

安っぽい街並みに変わっていき、貧富の格差が開いていく。

 

 

 

 

 

 

 

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2019/07/01 memo   jannmu
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