Something New

愛の詩

Dirty story

出産には立ち会えるというのでその病院を選んだ。

 

そのころ流行りの8ミリビデオハンディーカメラを購入して、妻を全裸にしお腹の出具合を毎月映像化した。

もちろん出産現場にもカメラを持ち込むつもりでいたが、直前になり病院に立ち会いを拒否された。いまはその理由をなんとなく理解できるようになったが、それでもとても理不尽なことだと思う。

 

 

 

ネットでアチコチ買い物をするようになると、どうしても銀行振り込みが多くなる。

当時土日でも24時間入出金や他行あて振り込みでも一切無料という銀行があったので、私はその銀行に口座を設けた。

 

数年後には振り込みは月に5回までとなり、その後3回となり1回となった。サービスの低下だが、やがて出金にも手数料を取るようになったので、その口座を使わないことにして全額おろしてしまったので、現在その口座残高はゼロである。

 

誘い文句を後から反故にするというのがこの20年くらいで流行していて、消費者はいつもその理不尽に従わされている。

 

政治でも選挙の際の公約によって投票したにもかかわらず、当選すると平気で反故にする政治家が増殖している。悪しき日本の姿があの後に生まれた子供たちにはどういう風に映っているのだろうか。

 

 

 

無事生まれた赤ん坊は男の子であった。病院の一室に並んだいくつかの保育器をガラス越しに順番に見ていくと、「!!!」この子だと思い、足首につけられている名札を見るとやはりなのだった。

 

そういった感覚をAIとやらに理解できるかどうか私には疑問だ。識別はできたとしても感覚そのものを理解することはできないだろう。

 

 

本来ならば妻の労をねぎらってからなのかもしれないが、出産の知らせを聞き真っ先に向かったのは新生児保育室だった。そのあと病室の妻に、「よく頑張った!でかした!」と礼を言った。とても嬉しく幸せな瞬間だった。人生にはそういう瞬間が誰にでも何らかのかたちで訪れるのではないのだろうか。少なくともそういう社会を誰もが望んでいるはずだと思うのだ。

 

数日後に妻と子は家に戻ってきた。正確には子の場合、初めて来たというべきか。

年の瀬も近づいた寒い日だった。彼の出産予定日は12月25日だったのだが20日ほど予定よりも早く生まれた。

 

それから彼に会いに病院にはこれなかった親類が何人か来てくれた。小さな彼を抱き上げて皆幸せそうな顔をする。なんと不思議な光景なんだろうと思うのと、彼はとても幸せだとも思うのだった。

 

妻はもともと手に職を持っていて仕事をしていた。出産から3か月は休んでいたのだが家に籠っているたちではないようで、働きだした。土日のアルバイトから徐々に体を慣らしていった。

 

そして私は子育てを当然のごとく分担していくことになる。いま思えば彼女の体慣らしは私にとっての子育てへの予備期間のようなものだった。

 

子育てというと大げさだが、ミルクを作ってやることやそれに付随すること、オムツを変えること、泣いたらあやしなだめること、寝かしつけることだが、私は不思議とそういったことに対して抵抗が全くないのだった。

 

とあるデパートに行ったときに、母親に買い物をさせて私はオムツを変えるために子供服やおもちゃ売り場のフロアにあるベビールームに入っていくと、父親はなぜか私だけだった。

ルームは乳とウンチの匂いで結構なものでもあるのだが、私には抵抗がないしあのときの母親たちも別に偏見を持っていなかったようだ。

 

夫婦ともに若干参ってしまうのは、夜泣きである。夜中に泣き出す赤子には正直参ったが、むずかる赤子のことだけではなく隣近所へのこともある。それが毎日続くのだからこれも結構なものなのだった。

そのときに体得した方法を伝授しておこう。

 

抱き上げた赤子の心臓と自分心臓を合わせるようにする。

文字通り「胸を合わせる」のだ。

そして泣く赤子の呼吸に自分の呼吸を合わせる。

これも文字通り「息を合わす」ということだ。

 

息があったところで意図的に少しずつ自分の呼吸を”ゆっくり深く”していく。あくまで徐々に。

「徐々に加減」は親子で調節して体得していくしかない。

この「徐々に加減」が上手くいくようになると、子供は泣き止みそしてぐっすりと眠りについてくれる。

しかしここでミルクが足りていることとオシメが濡れていないということが前提だ。

 

「徐々に加減」は自分の心臓の鼓動をゆっくりさせ、合わせた赤子の心臓と同期をとるような感覚だ。

徐々にゆっくりと呼吸を整えて心臓の鼓動も落ち着かせるということ。

このときに自分の呼吸音が赤子の耳に優しく聞こえるようなポジション取りの抱き方をすることも肝要だろう。

 

赤子が母親のお腹の中にいた時の環境に近づけてあげるということに尽きるかもしれない。

 

ママのために

ここに簡単に書いてあるので参考まで。

 

 

 

この物語はずっと、いや当分のあいだは続く。だからこの物語を汚したくないと思う。しかしこれから書くことがこの「命の物語」を汚すことになるとしたらと、私は少し躊躇しているが、冒頭を書き始める前から書くべきことはここにあるのだ。

 

 

 

 

 

広めの2DKのアパートは通りから細い路地を入り少し奥まったところに建っている。アパートの駐車場から車を出した時に、対向車が来るとすれ違うことができない細い路地だった。

夜になると人通りは途絶え、あたりは深と静まり返る。畳でいうと10畳ほどのダイニングキッチンの出窓の外は、真っ暗な路地がぼんやりと、薄明りの街灯に照らされている。

 

どういうわけかその年、このアパートよりももっと路地奥の空き地に建てられたプレハブは、年賀状集配のためのもので、郵便局がまだ民営化される前の郵政省管轄だった。

 

ある晩、まだ早い時間、8時か9時ころだったろうか。

路地に大型トラックが入ってきて出窓の前で止まり、奇妙なことにエンジンを吹かし始めた。3人家族が食事を済ませ、赤子がようやく寝付いたころだった。

 

その瞬間逆上した。殺意を覚えた。私は外へ飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 

   2008/8/18 12:20
   
   liar
   
   俺はきっと世界に嘘をつき
   世界はたぶん俺だけに隠し事をする
   下手な芝居
   筒抜けのささやき
   それらはいつも
   惑わせ、昂らせ、落ち込ませ、そそのかし、裏切る

 

 太陽や月、空に浮かぶ雲や優しい雨さえも、俺にとってはもう    リアリティーを失った    俺が持つ「夜行性動物の目」は残酷を日々映し出す

Lenny Kravitz - A New Door

https://www.youtube.com/watch?v=S8_zHYo6NYQ

 

 

 

 

神がもしも存在するならば、なんぴとたりにも嘘をつけない者であるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

「その後、息子」

 

既成概念や予備知識、能書きや取説なしに自分の感覚だけで、少なくとも

好き嫌いを自分勝手に決めて良いのが音楽やアート作品だが、人は広告に

流される。

 

物理的な広告の量であなたの好き嫌いが実は決定されている。それは量であ

る。

圧倒的広告量があなたの好き嫌いを、あなたの意志とは別に無意識に決めて

いる。あなたの脳は企業のサービスや商品宣伝広告に日々晒されていて、そ

れが正しいとか好きだとか思いこまされているが、あたかも自己責任におい

ての好き嫌いという情報空間に浸りきりにさせられている。

 

圧倒的な量の広告をTVラジオ新聞やその他都市空間に表示させることができ

るのは一体誰か、どういった企業なのか。上場大手という。

 

 

 

日本人は特に "異質" を嫌う傾向にある。"異質" なものは日本人には不安を

抱かせるのだろう。表面だけは個性を取り繕うのだが、それとてもどこかの

カタログにパターン化されているものに過ぎない。

 

ここで私個人と広告の関係について、ずっと自問してきたことに対してANSWER

が出始めた。

 

 

 

物書きは時空を超えて真実を伝えることができる。

私の言う物書きとは、小説家やジャーナリストとは違う。私の電子的な媒体を通した

記録文章は、人の日常のたぶんすべてを網羅しようとしている。とても欲張りなものだ。

それはまるで誰も全部を読み切れない聖書のような長編小説のようであり、しかし

短編オムニバスの寄せ集めではない。私を通して全てが繋がっている。

 

私は私の心以外の "感覚" という神以外の、潜在的神を排除する。

 

 

 

Answer to Love

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/24

 

 

 

 

外へ飛び出した。大型トラックのステップに上り運転席の窓越しに怒鳴りつけた。

運転手が窓を開けたなら殴りつけていただろうが、そうはならなかった。

 

冬の夜空に私の大きな声がとどろいた。

このアパートの他の住民や近隣にもこの声は届いただろう。

 

トラックはそろそろとプレハブに向かって動いていった。

 

私はこの運転手にではなく、郵便局に対して憎悪を持つようになった。

しかしそれは間違いだったと後に気づくことになる。

 

 

 

 

メロンパンの一日

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/38

 

 

 

「命」同士が愛しあい、新しい「命」を授かることによって親と子が誕生する。

親は子の「命」が「一番大切なもの」になる。

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/1

 

親と子はいわば同級生で、互いに互いから学ぶ存在なのである。

 

 

 

 

福島に巨大な地震が起きて大津波が襲いかかり、その数日後には原子力発電所が

爆発した。

その数年前からTVを見なくなっていた。コンセントから電源プラグを抜いたまま

の状態であった。

 

 

あの夜の騒音事件のころは多くの日本人と同じく、私は毎日仕事から家に帰ると

TVを見ていた。日本人はTV依存症であると私は思っている。

10年以上ずっとTVを一切見ないと、人と話をしたときに同じ事象に対する考えが

全く違うことに気が付くようになる。誰と話しても違うのだ。

 

TVという人為的に創作された情報を四角い画面に収めた空間が、日本人を共通の

何かに誘導・統制しているように感ずることができるようになる。

依存は誰にもあるようだが、TVだったり電子的なゲームであったりスマホであった

りするようだ。

 

彼らは麻薬常習者のようだ。TVやスマホがないと死んでしまうかのように、彼ら

の人生の貴重な時間を画面に集中させている。周りの景色や足元も見ず、居住する

都市が、落ち着かずにたった1年で変わっていくことを自らの目で確かめようとは

しない。

 

都市は人間そのものだが、彼らは生身の人間には興味がなく、四角い画面に映るも

のだけに興味を持つように何者かに誘導されているかのようでもある。

 

12月初旬に息子が生まれ歳が明けるとすぐに阪神淡路に巨大震災が起こった。

彼らの世代はそれ以降、何度の巨大災害を経験したのだろうか。そのたびにこの国は

安っぽい街並みに変わっていき、貧富の格差が開いていく。

 

 

 

 

 

 

 

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2019/07/01 memo   jannmu

埋もれた言葉の断片(塵)の輝き

言葉は目に見えないから空に融けていってしまう

言葉を拾い集め紬だせば輝きだす

言葉は砂浜の貝殻のようであり砂の粒のようでもある

輝いている言葉を心に繫ぎ止める術はないものか

 

あたりまえの輝きが希少になるのは

相対的な歪みを持つからだ

 

あたりまえの美しさを見落としてしまうと

ただのごみ拾いになってしまう

 

あたりまえが当たり前でなくなることを経済というならば

私はそういうものを拒み続けたい

 

竜宮城の砂浜は目も眩むほど白く輝いていた

竜宮城での酒池肉林が砂の白さを濁らせた

濁った砂の箱に閉じ込められた自由が

濁った水の中を泳いでいる

 

その眩しさの記憶は

いまや大海の水に溺れようとしている

 

 

 

美ら海の砂塵

 

 

 

 

 

 

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2019/02/28   jannmu
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手段と目的

 表現は思考の試作であり

 

 それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている

 

 奇をてらうものではなく

 むやみに壊すものでもない

 

 普遍化とはいまの時代

 

 少なくとも世界に一石を投じることであり

 

 表現はそのための手段である

 

 

                  2019.02.17 正午

 

 

 

 

 

 

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2019/02/20   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

偶然と必然と奇跡の関係性

奇跡という偶然の中に奇跡が起こるのは必然であり

 

奇跡なくして必然は起こりえない

 

その奇跡である偶然がこの星であり

 

ゆえに人間は必然だから

 

星の自然を制御しようとすれば必然によって人間は滅ぶ

 

 

自然から遠のく生活様式は旧時代的であり

 

人間の感覚や能力を退化させ必然以前の奇跡に閉じ込めてしまうだろう

 

 

この奇跡の星があるかぎり

 

自然以外のすべてが必然であるはずだ

 

 

天文学的に超越した確率でも

 

想像もつかないほど広大な宇宙のなかに

 

この地球があるかぎり奇跡は起こるのであり

 

この地球があるかぎり奇跡は必然である

 

そして必然の奇跡は「警告」でもある

 

 

 

s_Recovered_JPEG Digital Camera_129.jpg

 

 

 

2008/02/25

わがまま坊や

 


孤独を愛し

 


孤立を恐れ


調和を嫌い


今夜もアンバランスが浮遊する


俺が欲しいもの


望んでいるもの


俺が会いたいひと


力いっぱい抱きしめたいひと


それは愛
それは、
雪女      

 

投稿日 2008/02/25 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

2008/02/28

間引き

 


動物保護といいながら、数が多くなりひとの畑なんかを荒らしにきたり


ひとに害を加えるようになると、銃で撃つ、殺す


人間のエゴで消えてゆく命たち

 


俺たちはせめて、肉を食らい革を剥いで、その失われた命を余すことなく、これ以上無駄にすることなく、大切にしてゆかねばならない


人間の世界でも「戦争」という「間引き」が今でも行われている


全世界の人口は増え続ける。その一方で、他の動植物たちは、ひとつ、またひとつと
絶滅してゆく


仮に今、間引かなくてはいけない最終段階だとして、
間引かれるべきでない人間が、間引かれるべき人間に、間引かれている
本当に間引かれるべき人間はだれなんだ


そいつらの肉はきっと脂がのっていて、餌も最高のものを食っているだろうから、さぞかし美味いんだろう
それでもしかし、ひとが人の命を奪うなんてあり得ないこと。あってはならないこと
じゃあ、どうしたらいいんだ


人間以外の命とも、共存してゆくにはどうしたらいいんだ   

 

 

投稿日 2008/02/28 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

A Letter

Long long time ago

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Once upon a time

 

 

 

Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day

It'll don't know be taken Who When the letter

The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere

 

 

But it happen by one peace

The Change bigun When A girl pick it upon some beach

people said that "restart"

 

 

So adults dreem is like that may be...

 

 

 

 

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2019/01/21   jannmu

先入観と権威

言葉・文章で描写する絵画

これが私の仕事

経験と補足のための絵と写真と詩

 

ダウンロード.jpg

 

般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。

 

 

鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。

 

 

 

 

 

埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。

埴谷雄高

本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。

 

 

スポーツであれなんであれ、プロの仕事は

裾野を広げボトムアップ(底辺に生きる人の生活レベルの向上)を図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。

 

s_キャプチ.jpg

パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。

しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。

「美」とはなんぞや。

ちなみに私は彼女の大ファンである。

 

このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。

すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。

 

 

 

 

 

 

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2018/12/06   jannmu
タグ: , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

愛の終点  End point of love

終わった恋をセンチメンタルに残すのか、学びとして残すのかで

その思い出の重さと、後の瞬間に感ずる圧力が変化する

 

学びとして残すならば、相手への感謝に進化する

本当はそこに愛の終着点があるように思う

 

2018.11.01  14:13

 

 

 

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2018/11/22   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩

[saint] 「海老と蟹と貝」

河は悠久の歳月の中で蛇行と洪水による水の直進化を繰り返すのは何故なんだろう?生き物は河の傍で文明を育んできた。

 

 

処女と童貞

少女と少年

そして処女性と童貞性

 

聖なる something 

個の絶対性と他から与えられる相対性

内側と外側

 

失うものと与えられるもの

そもそも失いようがなく持っているもの

 

大きな鏡にしか映らないものがある

 

 

卵の殻をカラスが突く月曜日のゴミ捨て場

飽食の時代に ”もったいない” は忘れ去られて

簡単便利激安を消費して

そこから出る、卵の殻に微かに残った液体ほどの利益でかろうじて食つなぐ

 

現代人は熱帯魚の水槽の底に蠢く

海老と蟹と貝のようだ

 

 

 

還暦と処女性を同居させたい臣民支配者は

異国の大きな鏡を見誤った

異国の大きな鏡を読めなかった

異国の大きな鏡に映る something は開き盲には感じれない

臣民は自らを少数化した

 

2018.11.09 AM

 

 

 

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2018/11/09   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

scale and ruler

大人の話として、あくまでも大人の話としてだが

自分の心の定規を表現することと

自分以外の単なる定規で表現することの違いを理解できないのは、犬の「お手」とか「チンチン」などの芸と同じで術にはならない

芸などは犬でも猫でもできる

芸術としてあることはどういうことなのだろうか

 

それは愛と憎しみという感情が同答で、しかし裏腹であり表裏一体のものであることを理解しなおかつ制御して、その内なる葛藤を表現として体内から汗の副産物として排泄するもの

そこに権威という衣は全く不要であり、しかし権威という衣は実力に伴って追いかけてくるものだが、振り払うことをづづける作家を芸術家というのだろう

権威にすがりつくことは、その芸術の終焉にほかならない

なぜなら芸術家の持つ術は、その個人にしかできないもののはずだから

つまり新しい価値観の創造だが、時代、100年、1世紀先を見据えてこそ

 

人がだれかを「殺してやりたい」と思うことを私は否定しない

殺意は恋と裏腹で、恋の対象には近づこうとするが殺意の対象からは遠ざかろうとする

移動の自由はそこにもあるべきだろう

 

 

 

 

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2018/09/21   jannmu
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