Something New

落書き

Our planet

この地球という星は僕らを乗せていったいどこへ進んでいくんだろう

僕らをどこに連れていくんだろう

 

そう考えていたけど

 

僕はいったいどこへ行きたいんだろう

多くの僕のことを ”僕ら” と書くけれど

僕ら一人一人はそれぞれ違うけど

僕らの総意がこの地球という星の行き先をきめてゆく

 

こう考えてみると

 

僕らという総意の中にいる個人としての僕にも

きっと何かができるはずだと思うんだ

総意は実は誰にもわからないものだけど

 

だからもっといろんなことを知りたいと思うんだ

知らないことばかり、知らないことのほうが多いんだし

 

でもたったひとつ知りたくないことがある

「さよなら」の意味

 

 

ビートルズのLET IT BEを受け身の ”なすがままに” と聴いていたけれど

僕の(正しいと)”思うがままに”、と聴きなおしてみようと思うんだ

 

 

 

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2019/12/12   jannmu
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When safety and security become expensive?

安全や安心が高価になるとき

 

 

 

危険なものや危険な人や考え方が増えてくると

相対的に安全や安心といった価値観が高価になる

 

先進国の人々は水を汲みにいかなくてよくなり

薪を切り出しに行かなくてよくなり

隣町まで歩いて行かなくてよくなり

 

 

生きる為の必要不可欠だった運動から遠くなった

 

 

 

殆どの人が病院で生まれ、殆どの人が病院で死ぬ

生活から「生と死は切り離されてしまった」

日本では障がい者や病気になった年寄りも切り離されている

人口の大部分を占める健常者が健常なうちに気づかないとやがて自分も隔離される

すべてを剥ぎ取られて用無しになると屠殺される

 

冬は河豚の美味しい季節だ

河豚を綺麗な伊万里の皿に薄切りにして飾り付けて

独特のタレで食うのは日本人の食文化だが、私は生まれてから一度しか食ったことがない

 

河豚の肝は猛毒だから扱う職人は猛毒を扱い管理する技術と知識を持っていなければならない

だから河豚料理は高価だ

 

世界中に武器や毒が増えていくと、技術もなく管理者でもない者が武器をコンビニや闇ルートで入手できるようになってしまう

これが資本主義の欠点だ

 

危なくなればなるほど武器が売れる

危なくないのに危ない雰囲気をTVや新聞などで演出することもできる

そうすると武器が売れる

 

世界中で一番高価な商品が武器だ

 

しかしもっと言えば、人間をも商品にしてしまうのが資本主義だ

 

それでは資本主義以外に変えたら人身売買や臓器(売買)移植などはなくなるだろうか?

 

 

敢えて書きかけにしておこうと思う。

 

 

 

*「屠殺」という文字変換ができなくなっている

 

 

 

 

 

 

 

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2019/12/08   jannmu

音の墓場と匂いの修羅場

ピコピコとブルブルとプンプンがブンブンするソース

 

ブレインストーム 劇場公開日 1984年4月14日

人の頭の中を覗くことができる装置

https://eiga.com/movie/49003/review/

 

マトリックス  1999年9月11日 日本公開

3作目のクライマックスは、如何にもキリスト教的なサクリファイス

https://ciatr.jp/topics/47252

 

フェノミナン  製作年:1996年

https://mihocinema.com/phenomenon-34258

 

主人公を取り巻く人間模様

 

 

 

これらの映画を見て暗鬱たる気持ちになり、雨の中霞が関から川崎まで歩いて帰ったあの時の思いが蘇る。

フェノミナンのエンディングに流れるクランプトンの「Change the world」だけが救いかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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2019/11/27   jannmu
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「あさがおの夢」

バラになりたい田んぼのカエル

バラになりたい畑の蝶々

 

巨大墓石の生活にかき消される

むらさきの花の汁ひと滴

 

あさがおの夢

 

15.07.05  12:00

 

 

 

 

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2019/08/21   jannmu
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えだまめ

一人っ子のえだまめは

遠い昔の砂漠の王子

 

二人っ子のえだまめは

オペラグラス

 

三人兄弟のえだまめは

お祭りの始まり

 

四人兄弟のえだまめは

罪意識

 

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2019/04/13   jannmu
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マゾヒストとサディスト

劇的なるものをめぐってⅡと劇場型政治

 

一昨年に早稲田で見たときのチラシが残っていて、朝食をとりながらつらつらと思い返す。

あのとき大隈講堂の2階席で見ていて、台詞は7・5調の日本語なのだが

意味はまったくわからず、それでも日本なので大体のストーリーは理解で

きた。

 

チラシは一見してSMだとわかるが、彼ら劇作家はSMという表現を使わない。

マゾヒストとサディスト、この両者を人は誰もが併せ持つ。TVのお笑い番組

などは典型的なSMだが、視聴者はそのことに気づかないでいる。意識が眠っ

ている状態を潜在化というのだろう。

 

潜在化させたまま、眠らせたまま、その意識を利用するやりくちは日本の

国営放送がずっと研究したたまものなのだろう。

 

演者は演出家によってSなりMなりの部分を開花させられる。役者というの

はそういう意味で怖い職業でもある。

 

そして観客はどちらかの目線でその劇を劇的に見るのだろう。観客もSであ

りMであるわけだ。

観客個人は劇にSを求め、あるいはMを求めどちらかの目線で感じ取るだろ

うが、全体としてSMを共有する場でもある。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」というのと

「私ったらすごいでしょう」というのだ。

 

 

私はあの上映を見ていて、自分の笑いのツボが他の観客とは全く違うことに

気付いたのだが、そういうたったひとつの笑い声があの会場の重苦しい、い

かにもアカデミックでお堅い感じを壊して、観客は自由に笑い出したようだ

った。

 

それはまるで、私ひとりがSであとの観客すべてがMであるような感覚なのだ。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」という書き様をこれまで意識的に避

けてきたのはそういう気の持ちようが嫌いだからだ。恰好が悪いし被害者意

識というのを背負うのが美的センスに(性分)合わないからだ。

 

そうだとしても私にもMな部分が大いにあるわけで、「私ったらすごいでし

ょう」の方が私は好きだとここで確定して、enterキーを押すことをわずか

に躊躇する理由は、それがたぶん私の言う「島国根性」であるからだと思

うのだ。

 

排他的な社会では、私をすごいものよりも、可哀想なものとして生きるほう

が受け入れられ易い。島国としての日本の社会にはこれが未だに残っていて、

あるいは故意に潜在化させられていて目覚めない。

若者が社会に対して生き辛さを感じているのはこういったことではないのか

と思う。

 

故意に潜在化させているのはたぶん主にTVで、報道からお笑い番組に至るまで、

根っこの部分にはそれがある。

それがある限り劇場型政治が続いてしまうのだろう。

 

しかしこのことに若者が気づいたならば、格好の悪いいまの日本の姿に美意識を

感じないことが息苦しさの正体であると、はっきりと理解することができるので

はないのか。

 

そして私はこの駄文を書き終えて躊躇なくenterキーを押してしまおうと思う。

 

 

 

参考チラシ

https://www.scot-suzukicompany.com/works/16/

 

 

それにしても、物書きや画家とか演劇関係者にナルシストが多いのはなんでなのか。

彼らは自己顕示欲と自己愛をどう分けて考えるのだろうかと思う。

自己主張ではあるが、日本のそれはなんだか格好が悪いので好きになれないのは

洋画ばかり見ているからか。

 

あと、可愛い子ブリッコとかカマトトなども同様の排他的島国で生きる術として

長年身についたものなんだろうか。

それは精神的な分裂を意味しているし、日本的な建て前と本音の乖離を嫌う私には

理解できないでいる。

 

 

 

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2019/03/07   jannmu
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世界がダヴィンチを殺すとき

それが人間の持つ背景から脱するとき

 

砂漠の丘につづく彼女の背中の憂いと微笑みの意味が

初めて普遍透明化する

 

乾いた砂に落ちる小さなひとしずくの涙

かがやかせるものは、はるか彼方から昇る太陽のひかり

 

モナリザというプリズムを通してみる

一滴の液体と光と虹

 

眠っていた母なる大地が疼き求める

その感覚を阻害するなにかと私は闘いはじめる

 

内なる変化の瞬間

明日が花開く

 

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

A Letter

Long long time ago

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Once upon a time

 

 

 

Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day

It'll don't know be taken Who When the letter

The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere

 

 

But it happen by one peace

The Change bigun When A girl pick it upon some beach

people said that "restart"

 

 

So adults dreem is like that may be...

 

 

 

 

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2019/01/21   jannmu

先入観と権威

言葉・文章で描写する絵画

これが私の仕事

経験と補足のための絵と写真と詩

 

ダウンロード.jpg

 

般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。

 

 

鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。

 

 

 

 

 

埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。

埴谷雄高

本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。

 

 

スポーツであれなんであれ、プロの仕事は

裾野を広げ底上げ(底辺に生きる人の生活レベルの向上)を図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。

 

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パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。

しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。

「美」とはなんぞや。

ちなみに私は彼女の大ファンである。

 

このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。

すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。

 

 

 

 

 

 

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2018/12/06   jannmu
タグ: , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE
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