手段と目的
表現は思考の試作であり
それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている
奇をてらうものではなく
むやみに壊すものでもない
普遍化とはいまの時代
少なくとも世界に一石を投じることであり
表現はそのための手段である
2019.02.17 正午
表現は思考の試作であり
それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている
奇をてらうものではなく
むやみに壊すものでもない
普遍化とはいまの時代
少なくとも世界に一石を投じることであり
表現はそのための手段である
2019.02.17 正午
奇跡という偶然の中に奇跡が起こるのは必然であり
奇跡なくしては必然は起こりえない
その奇跡である偶然がこの星であり
ゆえに人間は必然だから
星の自然を制御しようとすれば必然によって人間は滅ぶ
自然から遠のく生活様式は旧時代的であり
人間の感覚や能力を退化させ奇跡に閉じ込めてしまうだろう
この奇跡の星があるかぎり
すべてが必然であるはずだが
天文学的に超越した確率でも
想像もつかないほど広大な宇宙のなかに
この地球があるかぎり奇跡は起こるのであり
この地球があるかぎり奇跡は必然である
僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。
科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの
ほうがはるかに多い。
その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学
における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて
人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。
1+1=2では表せないコトのほうが多い。
たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢
や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは
ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ
てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。
僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。
僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という
名称で呼んでいる。
僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを
労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。
命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。
平均値とか統計値という。
平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく
統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から
外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の
人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安
でしかない。
1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で
補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと
いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ
か気後れして尻込みしてしまう。
科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ
トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に
近い表現ができるはずなんだ。
だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト
よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切
なんじゃないかと思うんだ。
スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然
知らなかったりするのでは意味がないじゃない。
1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2
で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱
から解放されるはずだ。
小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り
やすいんだ。
それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど
くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ
た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文
芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと
ても憂鬱なんだ。
Long long time ago
Once upon a time
Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day
It'll don't know be taken Who When the letter
The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere
But it happen by one peace
The Change bigun When A girl pick it upon some beach
people said that "restart"
So adults dreem is like that may be...
言葉・文章で描写する絵画
これが私の仕事
経験と補足のための絵と写真と詩
般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。
鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。
埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。
本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。
スポーツであれなんであれ、プロの仕事は
裾野を広げボトムアップを図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。
パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。
しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。
「美」とはなんぞや。
ちなみに私は彼女の大ファンである。
このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。
すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。
終わった恋をセンチメンタルに残すのか、学びとして残すのかで
その思い出の重さと、後の瞬間に感ずる圧力が変化する
学びとして残すならば、相手への感謝に進化する
本当はそこに愛の終着点があるように思う
2018.11.01 14:13
河は悠久の歳月の中で蛇行と洪水による水の直進化を繰り返すのは何故なんだろう?生き物は河の傍で文明を育んできた。
処女と童貞
少女と少年
そして処女性と童貞性
聖なる something
個の絶対性と他から与えられる相対性
内側と外側
失うものと与えられるもの
そもそも失いようがなく持っているもの
大きな鏡にしか映らないものがある
卵の殻をカラスが突く月曜日のゴミ捨て場
飽食の時代に ”もったいない” は忘れ去られて
簡単便利激安を消費して
そこから出る、卵の殻に微かに残った液体ほどの利益でかろうじて食つなぐ
現代人は熱帯魚の水槽の底に蠢く
海老と蟹と貝のようだ
還暦と処女性を同居させたい臣民支配者は
異国の大きな鏡を見誤った
異国の大きな鏡を読めなかった
異国の大きな鏡に映る something は開き盲には感じれない
臣民は自らを少数化した
2018.11.09 AM
目に見えないものを心で感ずる
心で感ずる以前の話として「音と匂いと味」がある
現代はエンジン音や電気モーター音と排ガスに溢れていて
耳と鼻を塞がれた時代だ
そして目に見えるものだけに極端に依存している
見た目だけ外見だけの人間が幅を利かしているのはこのためだ
メディアはそもそも匂いや味を持っていない
人は人工香料や人工甘味料に嗅覚や舌を侵されている
そのことに日々違和感を感ずるものは病人とされる
ことさらに視覚だけに訴えかけるような表現を駆使して
独裁者は危機感を煽り
独裁者の無能を隠す
こういう時代に健常者よりも、ろう者、もう者の感覚が比べ物にならないほど鋭いはずだ
このことを現代社会は偽善で纏いながら無視している
何故ヒトラーはユダヤ人を排除したのか?
何故ユダヤ人でなくてはならなかったのか?
何故優秀なユダヤ人を迫害したのか?
何故ネタニヤフはパレスチナ人を迫害するのか?
何故ネタニヤフはユダヤ人なのか?
何故ネタニヤフはパレスチナ人でなくてなならないのか?
2018-10-21 01:18:31
大人の話として、あくまでも大人の話としてだが
自分の心の定規を表現することと
自分以外の単なる定規で表現することの違いを理解できないのは、犬の「お手」とか「チンチン」などの芸と同じで術にはならない
芸などは犬でも猫でもできる
芸術としてあることはどういうことなのだろうか
それは愛と憎しみという感情が同答で、しかし裏腹であり表裏一体のものであることを理解しなおかつ制御して、その内なる葛藤を表現として体内から汗の副産物として排泄するもの
そこに権威という衣は全く不要であり、しかし権威という衣は実力に伴って追いかけてくるものだが、振り払うことをづづける作家を芸術家というのだろう
権威にすがりつくことは、その芸術の終焉にほかならない
なぜなら芸術家の持つ術は、その個人にしかできないもののはずだから
つまり新しい価値観の創造だが、時代、100年、1世紀先を見据えてこそ
人がだれかを「殺してやりたい」と思うことを私は否定しない
殺意は恋と裏腹で、恋の対象には近づこうとするが殺意の対象からは遠ざかろうとする
移動の自由はそこにもあるべきだろう