Something New

A shoe  「いわゆる神」

Oh me god !

 

 

 


Oh me god !

 

In the midst of the human individual mind " person " is dwells 

 

It is not a so-called God

 

The so-called God is not an anthropomorphic God,the so-called God is Humans have replaced " person " in God 

 

There is faith there

 

 

Society is a shoe

 

Religion is also at shoe

 

democracy is also shoe too

 

 

We have only two spiculum, so is better the hand of shoes less

 

 

 

 

Oh me god !

 

人間ひとり一人の心の中に「いわゆる神」ではなく”人”が宿っている

 

「いわゆる神」は神を擬人化したものではなく、「いわゆる神」は人間一人ひとりにそれぞれ宿っているこの”人”を擬神化したものである

 

そこに信仰がある

 

社会は靴である

 

宗教も靴である

 

民主主義も靴である

 

足は二本しかない、だから手持ちの靴は少ないほうがいい

 

 

 

 

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2019/08/10   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩 , SPACE

既存メディアこそが権威主義

ブログを書き始めたのとちょうど同時に、あちこちの美術館で

絵画その他の作品を鑑賞することを自然と覚えた。

 

ブログ記事は何万だか何十万だか数えきれない。美術館や街の

ギャラリーで鑑賞した美術作品も数えきれない。

 

芸術と民芸の違いは理解できた。

 

民芸と芸術の違いを理解できない作家は民芸作家と呼ぶべきなの

だが、芸術家が悲しいかな食うために民芸品を作らなければなら

ないこの国は、民主主義の多数決でいえば民芸品以下の眼力しか

ない者で溢れていて、TVやスマホや駅構内のポスター民芸いをア

ートだと思い込まされている。

 

アンディー・ウォー・ホールという作家が過去いた。

彼が愛したバンドであるベルベット・アンダーグラウンドのアル

バムジャケットには黄色いバナナが描かれている。

それを下地にして私は「Make my day!」と写真でやった。

 

ニクソンやモンローその他、アメリカの当時をサイケデリックに

表現したが、本当に彼が表現したかったのは何なのだろうか。

シルクスクリーンは、いくらでも刷れる手法だ。

 

それは新聞同様に多数に色と線をプレスして行く作業だが、その

作業は、ドル印刷にも同様なのだ。

それでは果たして、1ドル札とアンディーの作品とどちらが絵画

好きの心に残っているだろか。それが価値であると彼は多分言い

たかったのかもしれない。

そして既存のメディアに載せないということはどうだったのか。

当時、ビデオ録画がちょうど開発された時期である。

 

しかしビデオがTVという既存メディアに吸収されていくという

過程を彼は想像できなかった。だから彼の作品はいまや陳腐化

してしまったのだと私は思う。

 

美術館で数えきれないほどの絵画を鑑賞した。いちまいの絵画

と対話する時間は知っての通り他の者とはケタが違う。

 

私は世界で初めて「ゲルニカの解釈を変えた」

ゲルニカはちょび髭の男の肖像画であるように私には見える

 

 

当時の画家はジャーナリストとデザイナーとマスメディアとを

兼ねていた。情報通なのである。酒場からも知識人からも王族

からも情報を得て作品に埋め込んでいった。

誤解を恐れずいうならば、多分彼ピカソはヒトラーが実はユダ

ヤ人であることを知っていた。

 

ヒトラーは一般大衆車であるワーゲンとアウトバーンという高

速道路を作って金をばら撒いた。第一次大戦で破産状態のドイ

ツという国がどうしてそうしてカネ(マルク)を国民にばら撒

くことができたのだろうか。只々マルクを印刷しただけなのだ。

私はそう思う。

 

今の日本は、世界はどうだろうか。

 

知識人、学業も分業化されて細分化されているが、どれひとつ

とっても確立された学問などどこにもない。特に経済学や物理学

は、未知の部分が多くしかもそれらが各国のセキュリティーと

され、国費を投じて軍事化技術に投入されている。

確立されていない学問が軍事技術の根底なのだから、その学問や

技術を地球上で実験するための戦争が止まないのは当たり前な

のだ。

哲学でさへ、地動説以来議論を失った。アインシュタインもまた

ゼロという仮定を解くことができずに、その後の物理学は解明さ

れない仮定を原点に進むという悪循環に陥っている。

肉を食らう生臭坊主はベンツにのってステーキ屋の鉄板に女体を

盛り不敵な笑いを金に換え、どこぞの政治政党に還元して保身ば

かりを考えている。墓地はいまや不動産物件として金儲けの道具

と化している。

 

誰も物を申さない。

 

MODERNの後に何も生まれないのはメディアである作家が手抜き
をしてメディアに乗ってしまったから

POSTMODERNやNEOMODERNなどという言葉はそもそも

嘘なのだ

 

MODERNの後の新しい言葉が生まれないのはMODERNの模倣

から脱却できない言い訳に過ぎない

 

私はその指針を作ったと自負している

そしてMODERNの後に来るのは当然のこととして

FUTUERであるべきだと思っている

そこにはこれまでの神は一切いない

芸術家もそのことを隠す必要はない

 

私は雷の刺激する感覚を信ずるが

それこそが宗教観というものだ

自然への畏怖であり、戦争ばかりしている神へのタブーなど

私は持たない

 

 

そういう実態をピカソは当時見抜いていたはずだ。

ゲルニカに描かれた部品は、ユダヤを象徴するような別の絵画の

パーツばかりだが、それを一歩引いて全体を見渡すと、ヒトラー

の肖像なのだ。

 

「神は現実的な存在として今の今も、そこに存在する」ピカソのゲルニカに秘められた証拠と証明byはやし浩司https://www.youtube.com/watch?v=e7bP3IVxSDc

 

 

こうして絵画に対する洞察力も近視眼的になり、専門的分割化さ

れている。

 

 

私は芸術家そのものがメディアであるべきであるし、それはマス

メディアとは全く違う価値観を創造するものだと信ずる。

であるから、民主主義に欠かせない選挙であってもそこにマスメディア

を疑ってかかるという現象がもう既に勃興しているというのが

私の考え方である。

 

日本での教育で、世界史と日本史が分けられているのはぜかのか。

どうして日本人はアジア人を蔑視するのは平気だが欧米人に卑屈な

コンプレックスを持っているのか。

以前からここで訴えている「日本人の島国根性」とは何か。排他的

な慣習と村八分の同一性と、選挙時におけるあるいは独自の意見を

持つと居住地域でなにやら住みずらい現象が起こるのはなぜか。

それについて延々と、あらゆる角度からスライスした意見を述べて

きている。

そのことが、日本よりも外国人に多く受け入れられているというのは

事実で、私はそのことを日本人として恥ずかしく思う

 

そして私は生温い風呂に入り続けるという現状を受け入れるわけには

いかないということもあり、全国を行脚しているのである。

 

それは私もメディアであるという自覚だが、周囲の人々が私事に利用

することしか考えていない(特に行政)のが哀しいわけではある。

 

しかし、有無を言わさず、ラジオが終わったようにTVも終わるのだ。

「双方向メディア」をユーザーが理解するならば、必ず変わる。

 

そこでしかし、絵画がメディアならどうしてラジオやTVのごとく

終わっていないのかという問いがある

 

ラジオもTVもスマホどころか電話すらない当時の世界、しかも

文字を読める人もごく一部の人に限られていた。

だからこそ、当時の人々の審美眼というのは現代人よりも優れて

いたとは言えまいか。

 

当時の絵画や彫刻は現存するが、現代人が描いたものや彫った

作品は消費財として次から次へと作られては消えていくのは周知

の事実である。それは建築物でも同様だ。100年後を見据えたような

建築物あるいはそういった建築思想は日本には皆無といっていい。

 

だからそういう意味合いからいうならば、現代絵画や彫刻その他の芸術も

実は終わっている。目先のカネを生むかどうかが芸術あるいは芸術家の

評価である

 

私はそういうものにもアンチテーゼを大声で唱えようと思う

メディアであるはずの芸術家が既存メディアに乗って何かを伝えようつする

ことに何ら疑問も持たない感覚麻痺に対しても意義を唱えようと思う

 

権威主義であり、権威という化けの皮を剥がすと思想など何もない

 

commercialism and narcissism

 

 

既存メディアを駆使した此れまでの既得権や権威主義的なものが終わる

そして新たな何かが既に始まっている。

 

世界がそれを実感しているが、それを無闇に否定しているのが大手既存

危篤権益メディアなのである。

 

 

 

気づけばそれほど難しくはないはずだ。

 

 

 

例えばポピュラーな詩はずっと以前に書かれたものしかない。

それらの詩は現代人の生活には馴染まない。

たとえ哲学的、啓示的てきな一片の言葉があったとしても。

 

私は詩を書いた。

これも私の詩の一部。

しかし世の金持ちやいわゆるセレブに敢えて向けたものではない。

 

なぜ私はこの仕事をここから収入を得ることなしに続けられるのだろうか。

続けているのだろうか。

 

読者はそのことを疑問に思ったことがあるだろうか。

 

 

ポピュリズムという言葉が日本やアメリカでは問題視されている。

その意味合いが曖昧であるから

曖昧はこれまでの詩人の得意とするところだが

曖昧を壊す詩を書いてきた

詩も変化を求められているが

詩はあくまで詩であり続けることが私の美意識

だからあくまで曖昧でない、

新しい詩を書きたく思う

 

リッチな人々よりも、有り余った時間を持て余しているような人によりも

その真逆で生きている人々にこの詩を届けたい

だから私はポピュラーになることをメディア的思考で目指したのだ

 

それをサクセスとかセレブという言葉本来の意味からいえば間違いはない

しかし世界で虐げられている人々にこの心からの詩を届けるために

私のポピュリズムは、偏見的なものによる妨害に負けるわけにはいかない

 

いつかこの歌が、名もない人々に届くように私はこれからも書き続けるだろう

 

 

私にとり、知名度という言葉よりも、名も知らない人々が作者も知らずに

この詩を口ずさむような世界が私の理想なのだから

 

個人的な捌け口のような詩は若者に任すとして

私はそういった人々の代弁を詩を通して、少しだけ美化して伝えるに過ぎない

 

 

 

 

 

 

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2019/07/25   jannmu
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えだまめ

一人っ子のえだまめは

遠い昔の砂漠の王子

 

二人っ子のえだまめは

オペラグラス

 

三人兄弟のえだまめは

お祭りの始まり

 

四人兄弟のえだまめは

罪意識

 

s_DSC_0011.jpg

 

 

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2019/04/13   jannmu
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マゾヒストとサディスト

劇的なるものをめぐってⅡと劇場型政治

 

一昨年に早稲田で見たときのチラシが残っていて、朝食をとりながらつらつらと思い返す。

あのとき大隈講堂の2階席で見ていて、台詞は7・5調の日本語なのだが

意味はまったくわからず、それでも日本なので大体のストーリーは理解で

きた。

 

チラシは一見してSMだとわかるが、彼ら劇作家はSMという表現を使わない。

マゾヒストとサディスト、この両者を人は誰もが併せ持つ。TVのお笑い番組

などは典型的なSMだが、視聴者はそのことに気づかないでいる。意識が眠っ

ている状態を潜在化というのだろう。

 

潜在化させたまま、眠らせたまま、その意識を利用するやりくちは日本の

国営放送がずっと研究したたまものなのだろう。

 

演者は演出家によってSなりMなりの部分を開花させられる。役者というの

はそういう意味で怖い職業でもある。

 

そして観客はどちらかの目線でその劇を劇的に見るのだろう。観客もSであ

りMであるわけだ。

観客個人は劇にSを求め、あるいはMを求めどちらかの目線で感じ取るだろ

うが、全体としてSMを共有する場でもある。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」というのと

「私ったらすごいでしょう」というのだ。

 

 

私はあの上映を見ていて、自分の笑いのツボが他の観客とは全く違うことに

気付いたのだが、そういうたったひとつの笑い声があの会場の重苦しい、い

かにもアカデミックでお堅い感じを壊して、観客は自由に笑い出したようだ

った。

 

それはまるで、私ひとりがSであとの観客すべてがMであるような感覚なのだ。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」という書き様をこれまで意識的に避

けてきたのはそういう気の持ちようが嫌いだからだ。恰好が悪いし被害者意

識というのを背負うのが美的センスに(性分)合わないからだ。

 

そうだとしても私にもMな部分が大いにあるわけで、「私ったらすごいでし

ょう」の方が私は好きだとここで確定して、enterキーを押すことをわずか

に躊躇する理由は、それがたぶん私の言う「島国根性」であるからだと思

うのだ。

 

排他的な社会では、私をすごいものよりも、可哀想なものとして生きるほう

が受け入れられ易い。島国としての日本の社会にはこれが未だに残っていて、

あるいは故意に潜在化させられていて目覚めない。

若者が社会に対して生き辛さを感じているのはこういったことではないのか

と思う。

 

故意に潜在化させているのはたぶん主にTVで、報道からお笑い番組に至るまで、

根っこの部分にはそれがある。

それがある限り劇場型政治が続いてしまうのだろう。

 

しかしこのことに若者が気づいたならば、格好の悪いいまの日本の姿に美意識を

感じないことが息苦しさの正体であると、はっきりと理解することができるので

はないのか。

 

そして私はこの駄文を書き終えて躊躇なくenterキーを押してしまおうと思う。

 

 

 

参考チラシ

https://www.scot-suzukicompany.com/works/16/

 

 

それにしても、物書きや画家とか演劇関係者にナルシストが多いのはなんでなのか。

彼らは自己顕示欲と自己愛をどう分けて考えるのだろうかと思う。

自己主張ではあるが、日本のそれはなんだか格好が悪いので好きになれないのは

洋画ばかり見ているからか。

 

あと、可愛い子ブリッコとかカマトトなども同様の排他的島国で生きる術として

長年身についたものなんだろうか。

それは精神的な分裂を意味しているし、日本的な建て前と本音の乖離を嫌う私には

理解できないでいる。

 

 

 

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2019/03/07   jannmu
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埋もれた言葉の断片(塵)の輝き

言葉は目に見えないから空に融けていってしまう

言葉を拾い集め紬だせば輝きだす

言葉は砂浜の貝殻のようであり砂の粒のようでもある

輝いている言葉を心に繫ぎ止める術はないものか

 

あたりまえの輝きが希少になるのは

相対的な歪みを持つからだ

 

あたりまえの美しさを見落としてしまうと

ただのごみ拾いになってしまう

 

あたりまえが当たり前でなくなることを経済というならば

私はそういうものを拒み続けたい

 

竜宮城の砂浜は目も眩むほど白く輝いていた

竜宮城での酒池肉林が砂の白さを濁らせた

濁った砂の箱に閉じ込められた自由が

濁った水の中を泳いでいる

 

その眩しさの記憶は

いまや大海の水に溺れようとしている

 

 

 

美ら海の砂塵

 

 

 

 

 

 

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2019/02/28   jannmu
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手段と目的

 表現は思考の試作であり

 

 それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている

 

 奇をてらうものではなく

 むやみに壊すものでもない

 

 普遍化とはいまの時代

 

 少なくとも世界に一石を投じることであり

 

 表現はそのための手段である

 

 

                  2019.02.17 正午

 

 

 

 

 

 

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2019/02/20   jannmu
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偶然と必然と奇跡の関係性

奇跡という偶然の中に奇跡が起こるのは必然であり

 

奇跡なくして必然は起こりえない

 

その奇跡である偶然がこの星であり

 

ゆえに人間は必然だから

 

星の自然を制御しようとすれば必然によって人間は滅ぶ

 

 

自然から遠のく生活様式は旧時代的であり

 

人間の感覚や能力を退化させ必然以前の奇跡に閉じ込めてしまうだろう

 

 

この奇跡の星があるかぎり

 

自然以外のすべてが必然であるはずだ

 

 

天文学的に超越した確率でも

 

想像もつかないほど広大な宇宙のなかに

 

この地球があるかぎり奇跡は起こるのであり

 

この地球があるかぎり奇跡は必然である

 

そして必然の奇跡は「警告」でもある

 

 

 

s_Recovered_JPEG Digital Camera_129.jpg

 

 

 

2008/02/25

わがまま坊や

 


孤独を愛し

 


孤立を恐れ


調和を嫌い


今夜もアンバランスが浮遊する


俺が欲しいもの


望んでいるもの


俺が会いたいひと


力いっぱい抱きしめたいひと


それは愛
それは、
雪女      

 

投稿日 2008/02/25 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

2008/02/28

間引き

 


動物保護といいながら、数が多くなりひとの畑なんかを荒らしにきたり


ひとに害を加えるようになると、銃で撃つ、殺す


人間のエゴで消えてゆく命たち

 


俺たちはせめて、肉を食らい革を剥いで、その失われた命を余すことなく、これ以上無駄にすることなく、大切にしてゆかねばならない


人間の世界でも「戦争」という「間引き」が今でも行われている


全世界の人口は増え続ける。その一方で、他の動植物たちは、ひとつ、またひとつと
絶滅してゆく


仮に今、間引かなくてはいけない最終段階だとして、
間引かれるべきでない人間が、間引かれるべき人間に、間引かれている
本当に間引かれるべき人間はだれなんだ


そいつらの肉はきっと脂がのっていて、餌も最高のものを食っているだろうから、さぞかし美味いんだろう
それでもしかし、ひとが人の命を奪うなんてあり得ないこと。あってはならないこと
じゃあ、どうしたらいいんだ


人間以外の命とも、共存してゆくにはどうしたらいいんだ   

 

 

投稿日 2008/02/28 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

A Letter

Long long time ago

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Once upon a time

 

 

 

Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day

It'll don't know be taken Who When the letter

The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere

 

 

But it happen by one peace

The Change bigun When A girl pick it upon some beach

people said that "restart"

 

 

So adults dreem is like that may be...

 

 

 

 

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2019/01/21   jannmu

先入観と権威

言葉・文章で描写する絵画

これが私の仕事

経験と補足のための絵と写真と詩

 

ダウンロード.jpg

 

般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。

 

 

鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。

 

 

 

 

 

埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。

埴谷雄高

本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。

 

 

スポーツであれなんであれ、プロの仕事は

裾野を広げボトムアップ(底辺に生きる人の生活レベルの向上)を図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。

 

s_キャプチ.jpg

パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。

しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。

「美」とはなんぞや。

ちなみに私は彼女の大ファンである。

 

このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。

すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。

 

 

 

 

 

 

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2018/12/06   jannmu
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