Something New

えだまめ

一人っ子のえだまめは

遠い昔の砂漠の王子

 

二人っ子のえだまめは

オペラグラス

 

三人兄弟のえだまめは

お祭りの始まり

 

四人兄弟のえだまめは

罪意識

 

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2019/04/13   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , SPACE

幸せの段取り

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自宅でひとり酒を飲みながら飲んだ後の〆を何にするか考えていた。

 

学生時代のアルバイトのほとんどは接客仕事募集で入ったが、どこでもいつの間にか調理場に回っていた。

 

従業員に食べさせる賄いという食事は、ここ数年の日本人精神の堕落によって金をとるので、メニューから従業員に選ばせるという変な方式に変わってしまった。

 

 

冷蔵庫や野菜保存するための籠に残っている食材で、早いもの(職人のあいだでは”アニキ”という)から片付けていかなくてはならない。経理でいうと”先入れ先出し法”という、食材調理人にとっては最も理にかなった手法だ。

 

世の主婦やお母さん方が無意識にしていることだが、それを学者にも理解できる正式名称に変換すると、そういう味気ない言葉になってしまうが、私にはそのことを理解しつつ敢えて境目を設けないというのが天地人に明確な境目がないという科学者的味気無さなのかもしれない。

 

 

 

 

 

そして今夜私が取り出した”アニキ”は長ネギである。

 

そしてこれも含めて〆というか寝る前の主食的な料理に仕立てなければならないという命題を、大げさに言えば背負っているのだ。

 

寝る前の食事を夕食とかその後の夜食というが、夢を見るには栄養が必要だ。死ぬことにすらある意味相当なエネルギーを必要とするように。

 

そういえばラーメンが冷蔵庫にある。

 

アルコールを飲んだ後のラーメンというのは振り返れば今を去ること30年前に、鶴見駅前にあったストリップ劇場に友人数人と行って、劇場ホール脇の自動販売機で買った缶ビールを数本飲みながら心も体も盛り上がった。

 

そのあとに寒風吹きすさぶ駅前で屋台のラーメンを食した時のその味が、脳裏に強く残存していることが主たる原因であり、あのときの女性の裸体の強さと美しさがそのもう一つの要因であることが、こうして白髪ねぎを刻んでいることの、つまり欲求の平和的消火作業とでもいえばいいのだろうか、そういう蓄積した記憶を”大人”ともしもいうならば、それはそれで逆らっても無駄な行為というものだということすら感ずる年齢に早くもなってしまったというべきか、ようやくなったというべきことか。

 

 

 

 

 

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2019/03/31   jannmu

マゾヒストとサディスト

劇的なるものをめぐってⅡと劇場型政治

 

一昨年に早稲田で見たときのチラシが残っていて、朝食をとりながらつらつらと思い返す。

あのとき大隈講堂の2階席で見ていて、台詞は7・5調の日本語なのだが

意味はまったくわからず、それでも日本なので大体のストーリーは理解で

きた。

 

チラシは一見してSMだとわかるが、彼ら劇作家はSMという表現を使わない。

マゾヒストとサディスト、この両者を人は誰もが併せ持つ。TVのお笑い番組

などは典型的なSMだが、視聴者はそのことに気づかないでいる。意識が眠っ

ている状態を潜在化というのだろう。

 

潜在化させたまま、眠らせたまま、その意識を利用するやりくちは日本の

国営放送がずっと研究したたまものなのだろう。

 

演者は演出家によってSなりMなりの部分を開花させられる。役者というの

はそういう意味で怖い職業でもある。

 

そして観客はどちらかの目線でその劇を劇的に見るのだろう。観客もSであ

りMであるわけだ。

観客個人は劇にSを求め、あるいはMを求めどちらかの目線で感じ取るだろ

うが、全体としてSMを共有する場でもある。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」というのと

「私ったらすごいでしょう」というのだ。

 

 

私はあの上映を見ていて、自分の笑いのツボが他の観客とは全く違うことに

気付いたのだが、そういうたったひとつの笑い声があの会場の重苦しい、い

かにもアカデミックでお堅い感じを壊して、観客は自由に笑い出したようだ

った。

 

それはまるで、私ひとりがSであとの観客すべてがMであるような感覚なのだ。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」という書き様をこれまで意識的に避

けてきたのはそういう気の持ちようが嫌いだからだ。恰好が悪いし被害者意

識というのを背負うのが美的センスに(性分)合わないからだ。

 

そうだとしても私にもMな部分が大いにあるわけで、「私ったらすごいでし

ょう」の方が私は好きだとここで確定して、enterキーを押すことをわずか

に躊躇する理由は、それがたぶん私の言う「島国根性」であるからだと思

うのだ。

 

排他的な社会では、私をすごいものよりも、可哀想なものとして生きるほう

が受け入れられ易い。島国としての日本の社会にはこれが未だに残っていて、

あるいは故意に潜在化させられていて目覚めない。

若者が社会に対して生き辛さを感じているのはこういったことではないのか

と思う。

 

故意に潜在化させているのはたぶん主にTVで、報道からお笑い番組に至るまで、

根っこの部分にはそれがある。

それがある限り劇場型政治が続いてしまうのだろう。

 

しかしこのことに若者が気づいたならば、格好の悪いいまの日本の姿に美意識を

感じないことが息苦しさの正体であると、はっきりと理解することができるので

はないのか。

 

そして私はこの駄文を書き終えて躊躇なくenterキーを押してしまおうと思う。

 

 

 

参考チラシ

https://www.scot-suzukicompany.com/works/16/

 

 

それにしても、物書きや画家とか演劇関係者にナルシストが多いのはなんでなのか。

彼らは自己顕示欲と自己愛をどう分けて考えるのだろうかと思う。

自己主張ではあるが、日本のそれはなんだか格好が悪いので好きになれないのは

洋画ばかり見ているからか。

 

あと、可愛い子ブリッコとかカマトトなども同様の排他的島国で生きる術として

長年身についたものなんだろうか。

それは精神的な分裂を意味しているし、日本的な建て前と本音の乖離を嫌う私には

理解できないでいる。

 

 

 

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2019/03/07   jannmu
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埋もれた言葉の断片(塵)の輝き

言葉は目に見えないから空に融けていってしまう

言葉を拾い集め紬だせば輝きだす

言葉は砂浜の貝殻のようであり砂の粒のようでもある

輝いている言葉を心に繫ぎ止める術はないものか

 

あたりまえの輝きが希少になるのは

相対的な歪みを持つからだ

 

あたりまえの美しさを見落としてしまうと

ただのごみ拾いになってしまう

 

あたりまえが当たり前でなくなることを経済というならば

私はそういうものを拒み続けたい

 

竜宮城の砂浜は目も眩むほど白く輝いていた

竜宮城での酒池肉林が砂の白さを濁らせた

濁った砂の箱に閉じ込められた自由が

濁った水の中を泳いでいる

 

その眩しさの記憶は

いまや大海の水に溺れようとしている

 

 

 

美ら海の砂塵

 

 

 

 

 

 

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2019/02/28   jannmu
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手段と目的

 表現は思考の試作であり

 

 それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている

 

 奇をてらうものではなく

 むやみに壊すものでもない

 

 普遍化とはいまの時代

 

 少なくとも世界に一石を投じることであり

 

 表現はそのための手段である

 

 

                  2019.02.17 正午

 

 

 

 

 

 

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2019/02/20   jannmu
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偶然と必然と奇跡の関係性

奇跡という偶然の中に奇跡が起こるのは必然であり

 

奇跡なくして必然は起こりえない

 

その奇跡である偶然がこの星であり

 

ゆえに人間は必然だから

 

星の自然を制御しようとすれば必然によって人間は滅ぶ

 

 

自然から遠のく生活様式は旧時代的であり

 

人間の感覚や能力を退化させ必然以前の奇跡に閉じ込めてしまうだろう

 

 

この奇跡の星があるかぎり

 

自然以外のすべてが必然であるはずだ

 

 

天文学的に超越した確率でも

 

想像もつかないほど広大な宇宙のなかに

 

この地球があるかぎり奇跡は起こるのであり

 

この地球があるかぎり奇跡は必然である

 

そして必然の奇跡は「警告」でもある

 

 

 

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2008/02/25

わがまま坊や

 


孤独を愛し

 


孤立を恐れ


調和を嫌い


今夜もアンバランスが浮遊する


俺が欲しいもの


望んでいるもの


俺が会いたいひと


力いっぱい抱きしめたいひと


それは愛
それは、
雪女      

 

投稿日 2008/02/25 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

2008/02/28

間引き

 


動物保護といいながら、数が多くなりひとの畑なんかを荒らしにきたり


ひとに害を加えるようになると、銃で撃つ、殺す


人間のエゴで消えてゆく命たち

 


俺たちはせめて、肉を食らい革を剥いで、その失われた命を余すことなく、これ以上無駄にすることなく、大切にしてゆかねばならない


人間の世界でも「戦争」という「間引き」が今でも行われている


全世界の人口は増え続ける。その一方で、他の動植物たちは、ひとつ、またひとつと
絶滅してゆく


仮に今、間引かなくてはいけない最終段階だとして、
間引かれるべきでない人間が、間引かれるべき人間に、間引かれている
本当に間引かれるべき人間はだれなんだ


そいつらの肉はきっと脂がのっていて、餌も最高のものを食っているだろうから、さぞかし美味いんだろう
それでもしかし、ひとが人の命を奪うなんてあり得ないこと。あってはならないこと
じゃあ、どうしたらいいんだ


人間以外の命とも、共存してゆくにはどうしたらいいんだ   

 

 

投稿日 2008/02/28 Feel something | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0) 

 

 

 

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

A Letter

Long long time ago

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Once upon a time

 

 

 

Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day

It'll don't know be taken Who When the letter

The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere

 

 

But it happen by one peace

The Change bigun When A girl pick it upon some beach

people said that "restart"

 

 

So adults dreem is like that may be...

 

 

 

 

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2019/01/21   jannmu

先入観と権威

言葉・文章で描写する絵画

これが私の仕事

経験と補足のための絵と写真と詩

 

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般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。

 

 

鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。

 

 

 

 

 

埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。

埴谷雄高

本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。

 

 

スポーツであれなんであれ、プロの仕事は

裾野を広げボトムアップ(底辺に生きる人の生活レベルの向上)を図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。

 

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パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。

しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。

「美」とはなんぞや。

ちなみに私は彼女の大ファンである。

 

このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。

すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。

 

 

 

 

 

 

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2018/12/06   jannmu
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愛の終点  End point of love

終わった恋をセンチメンタルに残すのか、学びとして残すのかで

その思い出の重さと、後の瞬間に感ずる圧力が変化する

 

学びとして残すならば、相手への感謝に進化する

本当はそこに愛の終着点があるように思う

 

2018.11.01  14:13

 

 

 

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2018/11/22   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩
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