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新「社会経済実態と消費」第9回19.12 「リーマン・ショックから10年」③ 【資本制システムの必然】

西村氏12月論考

新「社会経済実態と消費」第9回19.12 「リーマン・ショックから10年」③ 【資本制システムの必然】

nishimura19.12.pdf

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2019/12/03   jannmu
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音の墓場と匂いの修羅場

ピコピコとブルブルとプンプンがブンブンするソース

 

ブレインストーム 劇場公開日 1984年4月14日

人の頭の中を覗くことができる装置

https://eiga.com/movie/49003/review/

 

マトリックス  1999年9月11日 日本公開

3作目のクライマックスは、如何にもキリスト教的なサクリファイス

https://ciatr.jp/topics/47252

 

フェノミナン  製作年:1996年

https://mihocinema.com/phenomenon-34258

 

主人公を取り巻く人間模様

 

 

 

これらの映画を見て暗鬱たる気持ちになり、雨の中霞が関から川崎まで歩いて帰ったあの時の思いが蘇る。

フェノミナンのエンディングに流れるクランプトンの「Change the world」だけが救いかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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2019/11/27   jannmu
タグ:自然 , 落書き , memo , SPACE

認知

感性を鏡に投げつける

過激に優しく

 

反射してくる

反ってくる

 

鏡の外を鳥たちが飛び交っている

熱帯魚が体を翻す

羽音に昆虫が集まってくる

哺乳類が目を輝かす

 

動作は作動する

向き合う鏡に映る永遠

 

自己認識との差異

社会通念と狂気のずれ

 

悪性と善性の同居を発見する

 

知の認識が哲学で感覚の認識が芸術という鏡のささやき

 

生き方と認識とのずれを認知できない多くの現代人

 

 

これ見てたら言葉が浮かんだ

https://www.youtube.com/watch?v=ldkWGH8SVCM

 

 

昨日からずっと冷たい雨が降り続いている。出不精になって部屋に籠っていたが、食料の買い出しに今日は外へ出た。

ジャンクフードを久々に外食して、道端に散らかる傘に被せる薄いビニール袋を見て陰鬱となる。

 

 

十数年経過して初めて直接人目に触れた私の写真の模様

 

DSC_1291.jpg

 

 

 

 

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2019/11/23   jannmu

「あさがおの夢」

バラになりたい田んぼのカエル

バラになりたい畑の蝶々

 

巨大墓石の生活にかき消される

むらさきの花の汁ひと滴

 

あさがおの夢

 

15.07.05  12:00

 

 

 

 

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2019/08/21   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

フェクダとアリオトのあいだ

夜の散歩に出た。

 

一週間前に押し入れにしまったストーブなのに、その後続いた雨と強めの風のためにまた引っ張り出した。そして今日は湿った部屋の窓を開け放し、ずいぶんと晴れた風を引き入れた。洗濯をして布団を干して、掃除をして買い物をして一日が暮れた。

 

夜半の狭い坂道には甘い香りが漂っている。湿度が心地よく街路灯に邪魔されながらも星は輝いている。

街路灯の直接光をさけ比較的暗闇に望んだ夜空に大熊座が見えた。瞬間、流れ星が走って消えた。天頂付近で流れ星を見るのは初めてだった。

 

宇宙との一体感と神秘的で不可解な人生を受け入れることと

政治や宗教を含めたいわば通俗的な物事を知り、それこそ「知見」を広めることは相反することだろうか。という内なる疑問に対する答えを見たような気がする。

 

あるいは物質がなんらかの結合故の、生命の誕生以来の記憶や潜在意識との”意識的な疎通”が、私には無意識にできるという、これも神秘主義的だが私の経験としての自信につながるものだと確信するに至る。接見できうるあらゆる動植物と疎通が取れるという、他者には理解できぬ感覚を持つものとして。

 

ここのところ自分の叫び声に脅かされて目を覚ましてしまうことが多くある。

叫びの相手は内なる憎しみなのだと理解するが、寝ているときに見る夢には私とて無力だ。しかしそれは潜在意識との遭遇なのだから、記憶し理由をさぐれば、それはつまり宇宙との一体感ということだが、そこに神や仏、キリストやアラーましてや天皇などいるはずもない。

 

記憶というのは記憶であり、潜在意識というのも記憶である。

会ったことも触れたことも話したこともない相手が記憶として潜在化することはない。

 

私は無神論者だが、なにかに依存する人間という動物は何らかの依存先が必要で、つまり神というのは己自身の心の中にあると以前書いたことがある。まさにその答え合わせが、フェクダとアリオトのあいだに一瞬光って消えた。

 

2019  5/5 22:30 ころの天頂を見て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019/05/05   jannmu
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えだまめ

一人っ子のえだまめは

遠い昔の砂漠の王子

 

二人っ子のえだまめは

オペラグラス

 

三人兄弟のえだまめは

お祭りの始まり

 

四人兄弟のえだまめは

罪意識

 

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2019/04/13   jannmu
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マゾヒストとサディスト

劇的なるものをめぐってⅡと劇場型政治

 

一昨年に早稲田で見たときのチラシが残っていて、朝食をとりながらつらつらと思い返す。

あのとき大隈講堂の2階席で見ていて、台詞は7・5調の日本語なのだが

意味はまったくわからず、それでも日本なので大体のストーリーは理解で

きた。

 

チラシは一見してSMだとわかるが、彼ら劇作家はSMという表現を使わない。

マゾヒストとサディスト、この両者を人は誰もが併せ持つ。TVのお笑い番組

などは典型的なSMだが、視聴者はそのことに気づかないでいる。意識が眠っ

ている状態を潜在化というのだろう。

 

潜在化させたまま、眠らせたまま、その意識を利用するやりくちは日本の

国営放送がずっと研究したたまものなのだろう。

 

演者は演出家によってSなりMなりの部分を開花させられる。役者というの

はそういう意味で怖い職業でもある。

 

そして観客はどちらかの目線でその劇を劇的に見るのだろう。観客もSであ

りMであるわけだ。

観客個人は劇にSを求め、あるいはMを求めどちらかの目線で感じ取るだろ

うが、全体としてSMを共有する場でもある。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」というのと

「私ったらすごいでしょう」というのだ。

 

 

私はあの上映を見ていて、自分の笑いのツボが他の観客とは全く違うことに

気付いたのだが、そういうたったひとつの笑い声があの会場の重苦しい、い

かにもアカデミックでお堅い感じを壊して、観客は自由に笑い出したようだ

った。

 

それはまるで、私ひとりがSであとの観客すべてがMであるような感覚なのだ。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」という書き様をこれまで意識的に避

けてきたのはそういう気の持ちようが嫌いだからだ。恰好が悪いし被害者意

識というのを背負うのが美的センスに(性分)合わないからだ。

 

そうだとしても私にもMな部分が大いにあるわけで、「私ったらすごいでし

ょう」の方が私は好きだとここで確定して、enterキーを押すことをわずか

に躊躇する理由は、それがたぶん私の言う「島国根性」であるからだと思

うのだ。

 

排他的な社会では、私をすごいものよりも、可哀想なものとして生きるほう

が受け入れられ易い。島国としての日本の社会にはこれが未だに残っていて、

あるいは故意に潜在化させられていて目覚めない。

若者が社会に対して生き辛さを感じているのはこういったことではないのか

と思う。

 

故意に潜在化させているのはたぶん主にTVで、報道からお笑い番組に至るまで、

根っこの部分にはそれがある。

それがある限り劇場型政治が続いてしまうのだろう。

 

しかしこのことに若者が気づいたならば、格好の悪いいまの日本の姿に美意識を

感じないことが息苦しさの正体であると、はっきりと理解することができるので

はないのか。

 

そして私はこの駄文を書き終えて躊躇なくenterキーを押してしまおうと思う。

 

 

 

参考チラシ

https://www.scot-suzukicompany.com/works/16/

 

 

それにしても、物書きや画家とか演劇関係者にナルシストが多いのはなんでなのか。

彼らは自己顕示欲と自己愛をどう分けて考えるのだろうかと思う。

自己主張ではあるが、日本のそれはなんだか格好が悪いので好きになれないのは

洋画ばかり見ているからか。

 

あと、可愛い子ブリッコとかカマトトなども同様の排他的島国で生きる術として

長年身についたものなんだろうか。

それは精神的な分裂を意味しているし、日本的な建て前と本音の乖離を嫌う私には

理解できないでいる。

 

 

 

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2019/03/07   jannmu
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埋もれた言葉の断片(塵)の輝き

言葉は目に見えないから空に融けていってしまう

言葉を拾い集め紬だせば輝きだす

言葉は砂浜の貝殻のようであり砂の粒のようでもある

輝いている言葉を心に繫ぎ止める術はないものか

 

あたりまえの輝きが希少になるのは

相対的な歪みを持つからだ

 

あたりまえの美しさを見落としてしまうと

ただのごみ拾いになってしまう

 

あたりまえが当たり前でなくなることを経済というならば

私はそういうものを拒み続けたい

 

竜宮城の砂浜は目も眩むほど白く輝いていた

竜宮城での酒池肉林が砂の白さを濁らせた

濁った砂の箱に閉じ込められた自由が

濁った水の中を泳いでいる

 

その眩しさの記憶は

いまや大海の水に溺れようとしている

 

 

 

美ら海の砂塵

 

 

 

 

 

 

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2019/02/28   jannmu
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世界がダヴィンチを殺すとき

それが人間の持つ背景から脱するとき

 

砂漠の丘につづく彼女の背中の憂いと微笑みの意味が

初めて普遍透明化する

 

乾いた砂に落ちる小さなひとしずくの涙

かがやかせるものは、はるか彼方から昇る太陽のひかり

 

モナリザというプリズムを通してみる

一滴の液体と光と虹

 

眠っていた母なる大地が疼き求める

その感覚を阻害するなにかと私は闘いはじめる

 

内なる変化の瞬間

明日が花開く

 

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu
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