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『テレビ報道の深刻な事態』

 

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2019/03/26   jannmu
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マゾヒストとサディスト

劇的なるものをめぐってⅡと劇場型政治

 

一昨年に早稲田で見たときのチラシが残っていて、朝食をとりながらつらつらと思い返す。

あのとき大隈講堂の2階席で見ていて、台詞は7・5調の日本語なのだが

意味はまったくわからず、それでも日本なので大体のストーリーは理解で

きた。

 

チラシは一見してSMだとわかるが、彼ら劇作家はSMという表現を使わない。

マゾヒストとサディスト、この両者を人は誰もが併せ持つ。TVのお笑い番組

などは典型的なSMだが、視聴者はそのことに気づかないでいる。意識が眠っ

ている状態を潜在化というのだろう。

 

潜在化させたまま、眠らせたまま、その意識を利用するやりくちは日本の

国営放送がずっと研究したたまものなのだろう。

 

演者は演出家によってSなりMなりの部分を開花させられる。役者というの

はそういう意味で怖い職業でもある。

 

そして観客はどちらかの目線でその劇を劇的に見るのだろう。観客もSであ

りMであるわけだ。

観客個人は劇にSを求め、あるいはMを求めどちらかの目線で感じ取るだろ

うが、全体としてSMを共有する場でもある。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」というのと

「私ったらすごいでしょう」というのだ。

 

 

私はあの上映を見ていて、自分の笑いのツボが他の観客とは全く違うことに

気付いたのだが、そういうたったひとつの笑い声があの会場の重苦しい、い

かにもアカデミックでお堅い感じを壊して、観客は自由に笑い出したようだ

った。

 

それはまるで、私ひとりがSであとの観客すべてがMであるような感覚なのだ。

 

「私ったらなんて可哀想なんでしょう」という書き様をこれまで意識的に避

けてきたのはそういう気の持ちようが嫌いだからだ。恰好が悪いし被害者意

識というのを背負うのが美的センスに(性分)合わないからだ。

 

そうだとしても私にもMな部分が大いにあるわけで、「私ったらすごいでし

ょう」の方が私は好きだとここで確定して、enterキーを押すことをわずか

に躊躇する理由は、それがたぶん私の言う「島国根性」であるからだと思

うのだ。

 

排他的な社会では、私をすごいものよりも、可哀想なものとして生きるほう

が受け入れられ易い。島国としての日本の社会にはこれが未だに残っていて、

あるいは故意に潜在化させられていて目覚めない。

若者が社会に対して生き辛さを感じているのはこういったことではないのか

と思う。

 

故意に潜在化させているのはたぶん主にTVで、報道からお笑い番組に至るまで、

根っこの部分にはそれがある。

それがある限り劇場型政治が続いてしまうのだろう。

 

しかしこのことに若者が気づいたならば、格好の悪いいまの日本の姿に美意識を

感じないことが息苦しさの正体であると、はっきりと理解することができるので

はないのか。

 

そして私はこの駄文を書き終えて躊躇なくenterキーを押してしまおうと思う。

 

 

 

参考チラシ

https://www.scot-suzukicompany.com/works/16/

 

 

それにしても、物書きや画家とか演劇関係者にナルシストが多いのはなんでなのか。

彼らは自己顕示欲と自己愛をどう分けて考えるのだろうかと思う。

自己主張ではあるが、日本のそれはなんだか格好が悪いので好きになれないのは

洋画ばかり見ているからか。

 

あと、可愛い子ブリッコとかカマトトなども同様の排他的島国で生きる術として

長年身についたものなんだろうか。

それは精神的な分裂を意味しているし、日本的な建て前と本音の乖離を嫌う私には

理解できないでいる。

 

 

 

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2019/03/07   jannmu
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埋もれた言葉の断片(塵)の輝き

言葉は目に見えないから空に融けていってしまう

言葉を拾い集め紬だせば輝きだす

言葉は砂浜の貝殻のようであり砂の粒のようでもある

輝いている言葉を心に繫ぎ止める術はないものか

 

あたりまえの輝きが希少になるのは

相対的な歪みを持つからだ

 

あたりまえの美しさを見落としてしまうと

ただのごみ拾いになってしまう

 

あたりまえが当たり前でなくなることを経済というならば

私はそういうものを拒み続けたい

 

竜宮城の砂浜は目も眩むほど白く輝いていた

竜宮城での酒池肉林が砂の白さを濁らせた

濁った砂の箱に閉じ込められた自由が

濁った水の中を泳いでいる

 

その眩しさの記憶は

いまや大海の水に溺れようとしている

 

 

 

美ら海の砂塵

 

 

 

 

 

 

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2019/02/28   jannmu
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手段と目的

 表現は思考の試作であり

 

 それまでの常識を変えて普遍化する力を持っている

 

 奇をてらうものではなく

 むやみに壊すものでもない

 

 普遍化とはいまの時代

 

 少なくとも世界に一石を投じることであり

 

 表現はそのための手段である

 

 

                  2019.02.17 正午

 

 

 

 

 

 

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2019/02/20   jannmu
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A Letter

Long long time ago

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Once upon a time

 

 

 

Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day

It'll don't know be taken Who When the letter

The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere

 

 

But it happen by one peace

The Change bigun When A girl pick it upon some beach

people said that "restart"

 

 

So adults dreem is like that may be...

 

 

 

 

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2019/01/21   jannmu

先入観と権威

言葉・文章で描写する絵画

これが私の仕事

経験と補足のための絵と写真と詩

 

ダウンロード.jpg

 

般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。

 

 

鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。

 

 

 

 

 

埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。

埴谷雄高

本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。

 

 

スポーツであれなんであれ、プロの仕事は

裾野を広げボトムアップ(底辺に生きる人の生活レベルの向上)を図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。

 

s_キャプチ.jpg

パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。

しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。

「美」とはなんぞや。

ちなみに私は彼女の大ファンである。

 

このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。

すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。

 

 

 

 

 

 

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2018/12/06   jannmu
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愛の終点  End point of love

終わった恋をセンチメンタルに残すのか、学びとして残すのかで

その思い出の重さと、後の瞬間に感ずる圧力が変化する

 

学びとして残すならば、相手への感謝に進化する

本当はそこに愛の終着点があるように思う

 

2018.11.01  14:13

 

 

 

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2018/11/22   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩

[saint] 「海老と蟹と貝」

河は悠久の歳月の中で蛇行と洪水による水の直進化を繰り返すのは何故なんだろう?生き物は河の傍で文明を育んできた。

 

 

処女と童貞

少女と少年

そして処女性と童貞性

 

聖なる something 

個の絶対性と他から与えられる相対性

内側と外側

 

失うものと与えられるもの

そもそも失いようがなく持っているもの

 

大きな鏡にしか映らないものがある

 

 

卵の殻をカラスが突く月曜日のゴミ捨て場

飽食の時代に ”もったいない” は忘れ去られて

簡単便利激安を消費して

そこから出る、卵の殻に微かに残った液体ほどの利益でかろうじて食つなぐ

 

現代人は熱帯魚の水槽の底に蠢く

海老と蟹と貝のようだ

 

 

 

還暦と処女性を同居させたい臣民支配者は

異国の大きな鏡を見誤った

異国の大きな鏡を読めなかった

異国の大きな鏡に映る something は開き盲には感じれない

臣民は自らを少数化した

 

2018.11.09 AM

 

 

 

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2018/11/09   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

お米の話を殴り書く

利き手の甲を火傷してしまって水仕事がうまくできずに、ここのところお米を研ぐのもおっくうで数日間ご飯を食べなかったが、どうしても食べたくなって昨夕はぎこちないもう片方の手で研いで炊いて食べた。

そういうときにはどんぶり物が早いし簡単だ。

中華丼を作った。

白菜をそぎ切りにすると凸凹が綺麗な装飾になる。今回は空芯菜も使ってみた。これがなかなか歯ごたえがいい。

 

ご飯を食べたからかどうかは分からないが、今日は久々にランニングをして少し汗を書いた。ご飯を食べると元気がでるのだろうか、通じも良い。

考えてみれば50年以上この体はお米を主体として、炊いたご飯に合うようなおかず、私は魚と野菜が好きだが、そういうもので構成されているわけだから、そういうものを食わないと元気がでないというのは道理なのかもしれない。

 

さて、いきなりだが「国というのはそれ自体が巨大な銀行」だと考えるとどうだろうか。

アメリカは銃以外何も持っていなかった。借金どころかインディアンから恵んでもらって生き延びたのちに、インディアンからすべてを略奪し虐殺したのがアメリカ建国の歴史の土台だ。

巨大な銀行が銀行員のことばかり優遇する、あるいは頭取や役員だけが優遇されるような銀行はどうなのか。

 

アベ友である日銀黒田は相変わらず万札をガチャンコガチャンコと刷り続ける”円安”金融政策。

1ドルをかつては70円で買(交換)っていたが、今は110円くらい。その当時100円を切ろうとしていたレギュラーガソリン1リットルの価格は現在横浜では160円近くなっている。

遺伝子組み換えGMO食品とか、輸入牛肉の全頭検査していたものを実質全頭無検査状態に厚労省が緩和してしまったことはひとまず置くとして・・・

食料自給率がカロリーベースで37%しかない日本は、お米を除き6割がたの食料を輸入に依存している。食料の6割以上を輸入に頼らざるを得ない現状で円安政策と合わせて消費税増税により日々必需である食料品価格はここ数年で確実に高騰している。

こうなる以前からその徴候をここでは訴えてきたが、多くの人々がそのことを生活で実感するまでに悪化してしまった。

それは前述のように、単純に言えば70円で買っていた輸入食料を110円で買うことを万札を刷りながら善しとする金融政策により、必需品を高価で買わされているからだ。

裕福であろうと貧困であろうと食料は必需だが、裕福な人々は必需の価格に対して鈍感で疎い。が、そういう人々でさえそのことに気付いている。

アメリカほか先進諸国の食料自給率は100%を優に超えている国もある。余った食料をどうやって他国に売りつけるのかというのが彼ら日本以外の先進諸国の農業(者・企業)保護の考え方だが、日本の場合37%しかない食料自給率をどうやって向上させるかというのが保護政策の基本だ。

歴代日本政府はこの問題を隠蔽し続けてきたし、他国と同列に論じようと敢えてしているように思えてならない。

 

一方食料以外の生産品は余りに余ってタブついている状況なのではないのか。ちなみに売れなくても売れ残っていても生産は生産で、倉庫の在庫であってもGDPにはカウントされるらしい。

ここ数年で多くの災害が起き、そのたびに中小の町工場は廃業しているところも多いだろう。そして品質は明らかに低下している。

しかしなぜか大企業は戦後最高益を記録して、内部留保というかたちでストックしているらしい。労働者には何の恩恵もない。

円安政策から変化したときに、大企業は他の通貨と交換することで内部留保というストックから利益を生むことができるが、そのことで労働者が恩恵を受けることはないだろう。円高になったときに交換するだけで内部留保はさらに膨張するということだが、そこには何の労役も必要としないからだ。

労働者の労働と関係ないことで得た利益が労働者に還元されるはずはない。しかしそもそもその利益の元本は、労働者が流した汗と費やした時間なのだ。

日本の食・農業や生鮮品を保護するには政府に任せておくことはができない状況下では、消費者ができるだけ国産のお米や生鮮品を買うことしかないしそれが手っ取り早く保護できる方法だ。そしてこのことを消費者は生産者に伝えなければならない。

そのことが有害な食品から身を守ることにも繋がるし、労働環境を守ることだと思う。

まさに築地を無理やり豊洲に移転させ、東京都が法律を破ってまで築地市場を違法閉鎖していることとリンクする。

 

別の話。

アソーの毎回のおとぼけ発言には毎回辟易させられる。なので無視することにしているのだが、思いつくところがあるので書いておく。

アソーは総理のときに確かこの国をIT立国にするといった。そしていまや個人情報はあからさまに売買されていてマーケティングなどに利用されている。アソーが電通その他のマーケティングリサーチ企業と結託してアルバイトしているとすると、定期的におとぼけ発言するのが何故なのかが少し理解できる。

そして特にネットでは、そのこと(反応)が詳細に分析されやすい。

その分析は当然、選挙や国民投票時の広告にも悪用されるというわけだ。

 

彼らの脳みそや議会での居眠りのほうがよほど不摂生である。

 

 

タネは誰のもの? 「種子法」廃止で、日本の食はどう変わるのか――種子の専門家に聞く

画像は下記記事より

http://kokocara.pal-system.co.jp/2017/05/29/seed-yoshiaki-nisikawa/

 

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2018/11/06   jannmu
タグ:自然 , 落書き , memo

”誰かに見られてる”と感じたい人々

2018.10.29

 

”誰かに見られてる”と感じたい人々

~TV脳~

 

 普段は皆同じものを着ている。(ペットボトルごみから機械が作ったナイロンとかレーヨンの混紡)(人が作った綿や絹や麻はそれぞれ特徴がある)(デザインは全部、洋服という労働者用作業着)

 

 生誕や収穫や感謝ではなく、”見られてる”を感じたい人々を集めて商売にしていると、生誕や収穫や感謝を目的にそうしている人々からは、「彼らと相互理解は得られないだろうな」と直感的に思われてしまう。金儲けや、そもそも猿まねして騒ぐだけなのは失礼なのだ。

 

 しかも感じたいだけの人々は、非日常の自分たち同士を見ることもせずに互いを見て見ぬふりをしていて、それは相互理解ですらなく単に仮装行列に居ながら、自分を孤独においていることに気づいてはいないようだ。

 そのことが普段の”抑圧”からの一時避難行為であるというような、自身の内心にでさえ無関心でいる。

 

 初詣に始まってクリスマスにケーキを食べるまで多くの日本人に見られる、中身のない商業イベントに誘導され、消費させられるだけの人々には信仰心はない。

 

 日本の憲法20条では「政治と宗教の分離」を謳っている。

 

 日本を除く先進国のほとんどは、国の宗教を持っているが、日本は上記のために信仰の自由はあるが政治から宗教への関与を禁じている。一般市民もほとんどは信仰というよりも慣習や文化的意味合いでの行事として参加するということのようだ。

 

 政治が宗教に対して関与したり特権を与えてはならないということになっている。

 宗教団体ではなく、個人はいかなる思想信条信仰心を持っていても自由であるし、そういった考え方を持って政治に参加することは自由であるとも書かれている。

 

 国教を持っている国々は古代からずっと戦争を続けている。今も直接的に戦争をしている国は先進国に多い。日本は70年間”直接的”には戦争をしていない。(間接的には疑問だが)

 

 政治と宗教を分離する。

 

 崇高な理念であるが、これを不断の努力で成し遂げようと憲法はその前文で謳っている。

 

 宗教は何かを崇拝するものである。個人であったり偶像であったり、形のないものに対してであったりする。しかしどの宗教も崇拝の対象が固定化されている。ユダヤ教は偶像崇拝ではないといってみてもダビデの星崇拝であり、崇拝の対象を変えることができないものが宗教なのだということもできる。

 国教を持ち戦争を相変わらず続けている国々の潜在意識にある固定化され進歩や議論しない宗教が、無意識に戦争を続けさせているのだとすると、逆に多くの日本人のように行事のあるときにだけ自由に参加したりしなかったりでき、それは慣習としてであり信仰としてではないほうが、後に戦争呪縛に取り込まれる危険性は少なくなる。

 

 個人崇拝であれ宗教は宗教だが、現人神から人間に、政治の都合によってまた現人神にさせられようとしている人権を持たない人が日本にはいて、そのことも憲法に謳われている。このことを私はこの国最大の矛盾であると思う。天賦人権説の天をどこに置いているのかという問いでもある。

 

 ともかく、自分のしている行為に自身が意味を持たずに、流行だからとか、みんながそうするからとか、TVのCMやっていて面白そうだからとか、そういう感情的衝動的行為には必ず商業主義が待ち受けているということと、自分自身の動機や目的を考えずに仮装行列に参加しても癒しにもならず、帰って自分を孤独にするだけだし、普段の精神的抑圧(皆同じものを着て会社で仕事したり学校で勉強したり)からは解放されない。

 解放されないどころか逆に権力によっての規制の口実にされている。

 

 非日常を年に一度の仮装行列に求めても、頭の中が空っぽ(目的がない娯楽目的ですらない)で外側だけの仮装であり、日々日常の抑圧(内側への)から解放されようとしない限りは、あるいは同じものを着て職場や学校に行くことに(居眠りしてもサボっていても目立たない)ある種の安心感を持っているうちは、自分自身を抑圧から解放することはできない。

 

 自分を理解しないと相手を理解できるはずがない。相互理解によってしか世界は平和にならない。

 

 

 さて、誰にでも電車の中や公共の場で”視線を感じる”ことがあるだろう。感じる方向を見ると誰かと目が合う。

 このことをコンピュータで解明できるだろうか。

 誰も解明することができないが、現に事実としてある。誰にでも経験があるだろう。

 

 このことは人間同士だけでなく、動物や昆虫や魚とかカエルとか花や樹木などにも通ずるこは知っているだろうか。

 誰でもこれら自然と疎通できるのに、そのことに気づかないで、孤独と感じ、下らないものに誘導され、それでも満たせない癒やせないでいる。周囲から自然が消えて久しいし、自然をTV画像から、あたかも自分の身近にあるものとして刷り込まれているからなんだと思う。自然は脳みそだけでは感じないもの。

 渋谷や横浜(観光地)に、自然は皆無といっていい。あるようで無い。有るように感ずるのは”記号としての自然が配置されている”だけ。

 

 記号としての自然は、いつもいつもTVやスマホから刷り込まれているから、記号を見ただけで自然を感ずるような気がするだけ。自然から受け取っているものは微かだから、TVやスマホから受ける刺激の強い自然もどきや誇張された自然に慣れてしまった脳は実際の自然からは何も感じない。

 大昔に戻るべきだと言いたいわけではなく、極端にバランスを欠いてしまっていると言いたいのだが、極端にバランスを欠いた社会で生まれ育ち生活していると、そのことを理解することができない。

 特に若者世代をプアジェネレーションと以前書いたのはその為だ。だからと言って彼ら若者にはなんの責任もない。

さてどうするか・・・

 

 

 写真は昨日の夕暮れ時、エリスマン邸裏の斜陽。

 

 写真が下手で伝わらないかもしれないが、この美しさを生きているうちに目に焼き付けておきたいと心底思った。久しぶりにそういう感慨に耽りながら撮影したのだった。

 自分の外側(見た目)は内側から現れるものであり、敢えて装うのは内側を磨くためなんだし、中身のない仮装などなんの意味もなさない。

 内側は感性と言い換えられるが、感性は誰でも磨くことができる。一番の方法が自然と接して感じること。

 TVスマホから受ける強い刺激や毒性の強い刺激で麻痺した感覚を取り戻すこと。

 ここには鳥たちもたくさん住んでいる。心の中で話しかけてみるといい。少しずつ上達できる。誰でもできるはずだ。

 

ジェットコースター

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/35

 

 

 

Even In “Revolutionary Countries”, Mass Media Is Still In the Hands of The Right 

 

 

 2018-11-04 19:07:38

 2018-10-29 12:14:17

 

他ブログより転載

 

 

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2018/11/06   jannmu
タグ:自然 , memo
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