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いまさらの話

流行とかトレンドってなんだろうか。

 

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そういうものが大体20年周期でぐるぐる回ると言われていたけど

いまは10年、下手すりゃ3年くらいでまたやってくる感がある。

 

還暦も近くなる歳だと、20年周期だとしてもそれを数回経験して

いて、それが次々に出現する現象を目撃してきたわけだ。

 

トラッドとかトラディショナルというのも流行した。矛盾している

もののようだが。

 

 

近代化して都市化して人が大勢集まったり、TVやネットで価値観

同一化がなされる世界では、自然に発生していた流行というのが

仕掛けられることになる。

 

今年流行した靴や鞄は、昨年(前シーズン)にもうすでに用意され

ている。

それを継続させると、段々安かろう悪かろうの世界になってくる。

大量生産大量消費は安かろう悪かろうに段々なってくる。

 

 

しかし残るものもある。

残るということは数年であれ、その時代の洗礼を受け、淘汰され

消えるものがあり忘れ去り、極少数が残るのだ。

 

それを洗練されるとか、垢ぬけるというんだと思う。

 

今年これこれこういった材料が余ったし残ってるから、この材料で

作ったものを内緒で来年流行させようという考え方を、株や穀物

相場などの「先物買い」という。

 

 

未だ種も植えていない、その農地がそのときどうなっているかも

わからない。そういう中で、先物という相場が動くのだ。

 

デザインやアートでもそういった含みがある。

音楽でも演劇でもファッションでも娯楽でも何でもそうである。

 

 

しかしそれでも残るものは残るのだ。

 

 

ただし、そういったものは必ず権威性を帯びる。そういう帯びて

しまった権威性を作家自ら蹴とばして歩かなければならない。

 

普遍(性)というのはそういう状態だと思う。

 

それをJAZZ的に文章でやるのは兆戦のし甲斐があるというものだ。

 

 

 

 

 

 

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            蝉は毎年のようで実は7年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020/09/05   jannmu

自由と束縛

先日行った茅ヶ崎美術館の国領經郎の絵画展で見たもの、あれはいったいなん

だったのか。

 

点描の作風から変化していくさまと、彼の最晩年に描かれた作品が並ぶ一画は

全く別物に感じた。

 

その最晩年作品の一画に入った途端、妖気というか異様な雰囲気というか鬼気

迫る何かを作品が醸しているのだ。

 

戦争にも引っ張られ、試行錯誤して彼は彼のスタイルを確立したのだろうと思

うが、そして気づくと画壇の中央に立っていた。ときはまさしく高度成長期だ。

 

もしかしたらあの最晩年に描かれた作品群は、彼の懺悔や後悔そしてそれまで

の作品を殺そうとしたのではないのか。

私にはそんな風に思えた。

 

作り手の思惑に反して権威がまとわりつく。そのときにその権威を振り払うこ

とができるかどうかで評価は分かれる。

 

宮崎駿などは振り払うこともできずに死ぬんだろう。アニメという表現を全部

あるボトルネックを通して一緒くたにしてしまった権威に贖うこともできずに。

あのバブル世代の作家の罪は大きい。

 

 

画廊・ギャラリー・絵画館・美術館で手をアルコール消毒して、機械の画像に

体を写して体温を強制的に計られる。普通の感覚を持つものならば「何をする

コラ!」と大いに怒っていいのだが、しかしコロナウイルスが感染してはいけ

ないし、誰かに感染させてもいけない。体温が高ければ入場できないのだが、

体温が高いだけで感染しているとされることにも大いに疑問を持っている。

その後数日間自宅にいて、保健所に繋がるまで何度も連絡しそれでもすぐに検

査できるわけではないのが現状だ。

外国の空港では電子的に指紋を取られる。帰国した時も同様に取られる。

それは管理されるということで、体温であろうと網膜認証であろうと顔認証で

あろうと管理されることには変わりない。

 

表現する側が公的な施設で作品を展開するときに、自ら進んで、管理しようと

する側に忖度してそういった管理行為を何の考えもなしにするとしたら、これ

はもう表現の自由どころではない。

そのことに表現者が早く気づかないなら、いずれ横浜市営地下鉄車内にある、

あの小学生の描くポスター画と同じものを描かされ飯を食うことになるだろう。

 

つくづくつまらない世の中だと思う。

 

美術館からの帰りがけ、アパートへの上り坂から”かなとこ雲”という珍しい雲

を見た。

国領經郎の作品に出てくる女の頭に似ていると思った。

 

 

 

 

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2020/09/01   jannmu
タグ: , 自然 , 遠足日記 , memo , SPACE

チャリパン

宇宙の果てのある温暖化しはじめた惑星にチャリという木の実が生っている。

この木の実を収穫し、熟成させてからすり鉢で潰して、布で濾したものを砂糖で煮詰めて瓶詰にして、また熟成させてパン生地に入れて焼いたものをチャリパンといって、とても美味しいのだ。味はビタースイートアンドサワーとでもいえばいいのか、とにかく美味しい。

 

 

 

長年チャリンコであちこち遠出をしていると、一時間くらいペダルをこぎ続けると全ての感覚が開いてきていわゆるランナーズ・ハイになる。最近は自然の中を歩いているだけでそうなることができるようになった。この場合、ナチュラル・ハイというのが感覚的に近いかもしれない。

 

なので行きはよいよいなのだが帰りが怖い。帰りの電車やバスの中では既に感覚が全開フル回転しているので、音や匂いにとても敏感になる。

しかし音に関してはそういうことが以前からあるために、ノイズよけとしていつも音楽を聴いている。森林や海辺の自然の音、波長は音楽の基本だろう。しかし圧倒的に違うのは「究極ナンセンス」なのだ。これに音楽は太刀打ちできない。それでも人間の創った音楽で少なくとも雑音からは解放される。が、マスクをしていても匂いには勝てない。

以前「distance」というタイトル記事でも紹介したが、人工的科学的な香料にとても弱いのだ。

電車で座席に座っているとどこかの外国人が隣に座ったが、彼の香水が私にはキツいので即刻席を移動した。悪く思わないでほしいと思う。女性であっても同様だ。周囲10mくらい匂うだろうななんていう香水の付け方をしている人を私は馬鹿みたいに避けて歩くのだ。

もっと感覚がフル全開の時に、例えばスーパーやデパ地下などの食糧品売り場に行くと、それはもう説明のできないほど私は別の世界にいるということになる。

それは10年以上使い込んだ冷蔵庫とおさらばするときに、電気プラグを抜いた1時間後にその冷蔵庫の中に飛び込んでしまったような感覚なのだ。

 

排ガスとエンジン音とモーター音やクラクションとかくだらない横断歩道の電子音、不必要に高い建物から反射する光や熱、夏の暑さでアスファルトから立ち上る蜃気楼の鼻腔を突くほどの油臭さなど、街は雑音とノイズと異臭多すぎる反射光で充満しているのだが、それを感ずる度合いが多分他人よりもなんて言ったらいいのかわからない。

 

私のそういった感覚に優しい自然と、それに対しこれ以上なにをどう開発しようってんだよ、というような駅前、市街地などとのギャップは人を狂わせる。人の感覚を狂わせていると思うのだ。

 

女性もののパンツをここのところ数枚購入した。チャリンコをこいで1日の殆どを過ごすような日には、帰ってきてからお尻の穴より少し玉よりのデリケートな部分が擦り剥けてしまってとても痛い思いをこれまでしていたが、どうにかならないものかと常々思っていた。

思っているだけでは何も解決しないのだが、それでは何をどうすればいいのか分からない。そういうときには原因をつきとめるのだ。原因はガラパンの縫い目であった。

このデリケート部分に縫い目のない下着はないものかとあちらこちら見て回って、女性下着売り場の店員さんに聞いてみたりもした。ちょっと恥ずかしかったけど。

チャリンコ専用ウエアのスポンジクッションのはいったアレは猿のお尻みたいでカッコ悪いし嫌だった。初めに買った女性パンツはサイズが合わなかったし、そもそも腰の骨格が違うのでチャリンコをこいでいるとズリ下がってしまい要を満たさない。

次にサイズダウンしたものを購入して見たら何とかいけた。

そうして夏チャリ万全の構えを怠りなく準備していたのだが、どうもコロナで捗々しくないのだ。早くコロナ検査がチャリンコでもドライブスルーできるような体制を望みたいものだ。

 

なんのこっちゃ分からなくなったので、この辺で。

 

ギャラリー木の実さんありがとう。

 

神奈川県立茅ケ崎里山公園にて

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2020/08/24   jannmu

うっかりするとちゃっかり損する

 


 

帰りは会社員下校の時間になるので、電車で行くのをやめて自転車で小杉まで行ってきた。

この冬はそういえばどこへも自転車では遠出していないので、ももや脛の筋肉が随分と鈍っていることもそれこそ体感できた。

途中腹が減って元住吉商店街に入った。人はまばらだった。

あれこれ迷う間、匂っていた。

「この匂いはいったいだんだろう・・・」しばらく考えていた。

 

小中学生だったころよく遊んだ宮内の交差点の角にあったラーメン屋は、開店前の時間に辺り一帯にこれと同じ匂いを漂わせていたのを思い出した。

ラーメン屋は多いけれど、豚骨スープを自前で煮出すラーメン屋はそれほど多くないようだ。

工場で大量に作るスープをラーメン屋が使っているとすると、味自慢なんてことにはならないだろうしそのことはラーメンチェーン店へ僕が入らない大きな理由のひとつでもある。

 

ラーメンの麺を茹でたりスープを煮出したりするのは大概ガスコンロなのも忘れてはいけない。あれをHIでやられたひにゃ旨いものでも不味くなる。料理というのはそういうものだと思うのだ。

 

バレなければいいと法律を守らずにいて、バレたら開き直る昨今の日本人には、マナーを向上させるなどできるわけがなく、しかし情報はいまや一瞬にして世界を回りマナーすらエゲツナイ人は相手にされなくなる時代だ。

しかし自家製手作りと謳いながら工場で大量に作るスープを使うラーメン屋があるとすれば、上記の法律とマナーの関係性のようになるだろう。もちろん受け手の無知の問題も大いにあるのだが。

 

そんなわけで、今日は起き抜けからラーメンを食った。

スーパーで売っている大量生産3食入りスープ付きのラーメンだけど、野菜とダシ程度に少しの肉を炒めて醤油あんかけにして麺に乗せた。

これが旨い。

大きな鍋でたっぷり湯を沸かして麺を茹でるのが美味しいのだが、独り者はそうはいかない。小さな鍋で麺を茹でると、吹きこぼれることがある。そこで目を離さずに火力の調整をする。ガスに限る。

 

ラーメン屋のガスコンロは大概着火専用のライターを使っているようだ。

着火専用のガスライターでガスコンロに着火するという、うっかりするとちゃっかり損するような矛盾をここに発見し、それならば電子が飛ぶ部分だけを着火ノズルの先に取り付けるというような基本的発想が実は新たな何かの始まりになるような予感がするのだった。

 

 

 

綱島街道に出ると、新聞の折り込みチラシだろうかレジ袋であろうか、ひっきりなしの自動車に舞い上げられ空高く浮遊していて地面には降りてこない。目には見えないが他にもこのように浮遊している物質は多いのだろう。

生きる基本である食を支えるのが農業だが、農業と畜業は一対だったはずだしそうあるべきだ。

この生命の営みの基本を分断してしまった結果、固く黒い地面と空に浮遊するレジ袋という奇怪な風景を生みそれに人々が慣れきってしまっているというのが悲劇なのだと思う。

 

 

片道2時間、少しの合間の往復約4時間。

ずっと。

自転車のサドルとおちんちんの付け根の辺りが擦れ過ぎて痛い。ちゃりで遠出するといつも痛くなる。

 

「ガラパンのお股の部分の縫い目が駄目なんだが、ブリーフの縫い目を見てもあるいは女性もののパンツというかショーツもそうなんだろうか。デリケートゾーンをカバーするのだから女性ものの下着にはそういう思想が反映されているかもしれん。

行ってみよっと・・・」

 

かえって来たら暮れかかった空、細い上弦の月の隣に金星が輝いていた。

あの金星の位置はまるで僕の頬のほくろみたいだ。

そして空全体の色合いが、とんでもなく美しい。

endorphin

ナチュラル・ハイをアスリートだけが理解する。

 

 

 

 

 

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2020/02/28   jannmu
タグ:自然 , 遠足日記 , memo , SPACE

Our planet

この地球という星は僕らを乗せていったいどこへ進んでいくんだろう

僕らをどこに連れていくんだろう

 

そう考えていたけど

 

僕はいったいどこへ行きたいんだろう

多くの僕のことを ”僕ら” と書くけれど

僕ら一人一人はそれぞれ違うけど

僕らの総意がこの地球という星の行き先をきめてゆく

 

こう考えてみると

 

僕らという総意の中にいる個人としての僕にも

きっと何かができるはずだと思うんだ

総意は実は誰にもわからないものだけど

 

だからもっといろんなことを知りたいと思うんだ

知らないことばかり、知らないことのほうが多いんだし

 

でもたったひとつ知りたくないことがある

さよなら」の意味

 

 

ビートルズのLET IT BEを受け身の ”なすがままに” と聴いていたけれど

僕の(正しいと)”思うがままに”、と聴きなおしてみようと思うんだ

 

 

 

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2019/12/12   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

西村氏論考 

 

西村氏3月論考

新「社会経済実態と消費」第19回20.10「安倍政権って何だったのか?」.pdf

 

 

新「社会経済実態と消費」第12回19.03沖縄人の心の揺らぎ③【歴史修正主義が大きな役割㊤】

19.03.pdf

 

西村氏12月論考

新「社会経済実態と消費」第9回19.12 「リーマン・ショックから10年」③ 【資本制システムの必然】

nishimura19.12.pdf

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2019/12/03   jannmu
タグ:SPACE

フェクダとアリオトのあいだ

 夜の散歩に出た。

 

 一週間前に押し入れにしまったストーブを、その後続いた雨と強めの風のためにまた引っ張り出した。そして今日は湿った部屋の窓を開け放し、ずいぶんと晴れた風を引き入れた。洗濯をして布団を干して、掃除をして買い物をして一日が暮れた。

 

 夜半の狭い坂道には甘い香りが漂っている。湿度が心地よく街路灯に邪魔されながらも星は輝いている。

 街路灯の直接光をさけ比較的暗闇に望んだ夜空に大熊座が見えた。瞬間、流れ星が走って消えた。天頂付近で流れ星を見るのは初めてだった。

 

 宇宙との一体感と神秘的で不可解な人生を受け入れることと

 政治や宗教を含めたいわば通俗的な物事を知り、それこそ「知見」を広めることは相反することだろうか。という内なる疑問に対する答えを見たような気がする。

 

 あるいは物質がなんらかの結合故の、生命の誕生以来の記憶や潜在意識との”意識的な疎通”が、私には無意識にできるという、これも神秘主義的だが私の経験としての自信につながるものだと確信するに至る。接見できうるあらゆる動植物と疎通が取れるという、他者には理解できぬ感覚を持つものとして。

 

 

 ここのところ自分の叫び声に脅かされて目を覚ましてしまうことが多くある。

 叫びの相手は内なる憎しみなのだと理解するが、寝ているときに見る夢には私とて無力だ。しかしそれは潜在意識との遭遇なのだから、記憶し理由をさぐれば、それはつまり宇宙との一体感ということだが、そこに神や仏、キリストやアラーましてや天皇などいるはずもない。

 

記憶というのは記憶であり、潜在意識というのも記憶である。

会ったことも触れたことも話したこともない相手が記憶として潜在化することはない。

 

私は無神論者だが、なにかに依存する人間という動物は何らかの依存先が必要で、つまり神というのは己自身の心の中にあると以前書いたことがある。まさにその答え合わせが、フェクダとアリオトのあいだに一瞬光って消えた。

 

2019  5/5 22:30 ころの天頂を見て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019/05/05   jannmu
タグ:自然 , memo , SPACE

『テレビ報道の深刻な事態』

 

『テレビ報道の深刻な事態』.pdf

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2019/03/26   jannmu
タグ:memo

アクチノイド

2018/01/10   jannmu
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