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1+1=2の憂鬱

僕らの周りは1+1=2という、もはや信仰に近いモノで溢れている。

 

科学や数学がすべてを解明したかというと、解明できていないコトの

ほうがはるかに多い。

その解明できていないモノを扱う前提としての1+1=2という数学

における単なる決まりごとが、今や社会の真理のように扱われていて

人々はそのコトに疑いを持とうとしていない。

 

1+1=2では表せないコトのほうが多い。

 

たとえば僕らのこころの中のほとんどは1+1=2では表せないし、夢

や友情とか愛などもとてもじゃないが1+1=2なんて記号で表せるは

ずがないコトは説明すればだれでもわかるはずなのに、その場でわかっ

てもすぐに忘れて、また1+1=2の世界に戻ってしまう。

 

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人がいることは知っている。

僕らの命を1+1=2で表そうとしている人は、僕たちを労働力という

名称で呼んでいる。

僕らの中にもそんなこととは知らずに自分たちを

労働力と呼んでしまう1+1=2的な人がいることも知っている。

 

命を1+1=2にするためには平準化とか平均化という作業が必要になる。

平均値とか統計値という。

平均値はそういう人の数が一番多いということを表す1+1=2ではなく

統計値も人々を統計に沿うように強制するモノではなく、統計や平均から

外れていることに罪悪感を言外に与えようとする情報を操る1+1=2の

人々がいるということを表しているに過ぎないし、それとても単なる目安

でしかない。

 

1+1=2で表すことができないから、その表せないモノやコトを言葉で

補ったり、音楽だったり、お絵かきだったり、それが大人のゲイジュツと

いうモノのはずなんだが、僕たち日本人はゲイジュツと言われるとなんだ

か気後れして尻込みしてしまう。

 

科学や数学や文芸とかゲイジュツなど、これらでなんとかひとつのモノゴ

トを完璧とはいかないまでも、ひとつの表現方法だけよりももっと心理に

近い表現ができるはずなんだ。

 

だから僕は科学や数学や音楽や絵画などそれぞれのスペシャルになるコト

よりも、全部、広く、最初は浅くからでいいから知って感じるコトが大切

なんじゃないかと思うんだ。

 

スペシャルな人も必要だけど、スペシャルになればなるほど他のコトを全然

知らなかったりするのでは意味がないじゃない。

 

1+1=2で割り切れないコトに君がもし思い悩んでいるのなら、1+1=2

で割り切れないのが人間なんだと思いなおしてみると、意味のない日常の憂鬱

から解放されるはずだ。

 

小さな島国で育った僕らは神経質にできているから、1+1=2の呪縛に陥り

やすいんだ。

 

それよりも丘の上からみた東京の空のある高さから地上に近づけば近づくほど

くぐもった色のグラデーションになっているのは、つまり僕らはあのくぐもっ

た空気の中で日々呼吸しているのだと思うと、それは科学的にも医学的にも文

芸的にも1+1=2の悪しき追及の果てが見えるようで、そのコトのほうがと

ても憂鬱なんだ。

 

 

 

 

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2019/02/16   jannmu

A Letter

Long long time ago

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Once upon a time

 

 

 

Somebody throughout a letter big ocian in a bottle every day

It'll don't know be taken Who When the letter

The Letter in a glass bottle know "Just kidding" on the papere

 

 

But it happen by one peace

The Change bigun When A girl pick it upon some beach

people said that "restart"

 

 

So adults dreem is like that may be...

 

 

 

 

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2019/01/21   jannmu

地球の子よ

金環食は、太陽から月への指輪のプレゼント

地球は月の真後ろからそれを見て嫉妬した

月食は地球への指輪のプレゼント

月は地球に嫉妬はしない

 

地球は太陽に照らされ、夜は月の鏡に太陽を見る

太陽の光に映し出される”蒼”の美しさを知らない地球の悲しさよ

 

唯一無二の太陽に引けをとらない己の美しさを知らぬ者よ

知らぬが故の破壊行為は無知の極致

 

太陽は与え、月は夜を映し出す鏡

宇宙はまるで映画のようにこの星を映し出す

 

そのメッセージはいつも美しいこの地球をうらやんでいる

 

太陽神でも月の女神でもない

地球の子よ

 

目覚める時だ

 

2018.12.18  22:25

 

 

 

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2018/12/19   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩 , SPACE

先入観と権威

言葉・文章で描写する絵画

これが私の仕事

経験と補足のための絵と写真と詩

 

ダウンロード.jpg

 

般若の面から当時の西欧が受け取った美的感覚を、東洋で感覚する。

 

 

鋼鉱物を”カネ(支配)”に替えることを科学と最近ではいうらしい。

 

 

 

 

 

埴谷の思想が、裏腹の今日のネトウヨを生んだが、県立現代文学館はなぜか彼をやらない。

埴谷雄高

本能である”競う”ことを否定するのは、結局唯一絶対神を肯定することにほからならない。

 

 

スポーツであれなんであれ、プロの仕事は

裾野を広げボトムアップ(底辺に生きる人の生活レベルの向上)を図ることだが、勘違いしたプロは目的を誤ったが故に、自らの業界のレベルを下げ続けている。

 

s_キャプチ.jpg

パリコレに限らず世界中で使われているメイクアップ手法だろう。

しかしこのベースが「般若」であることは間違いないだろう。

「美」とはなんぞや。

ちなみに私は彼女の大ファンである。

 

このことを「先入観なき創造」と私は呼んでいる。

すべてが出尽くした現代の忘却故の作業かもしれない。しかしたった10年20年で焼き直し繰り返されるTV芸能とは明確に違う。

 

 

 

 

 

 

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2018/12/06   jannmu
タグ: , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

愛の終点  End point of love

終わった恋をセンチメンタルに残すのか、学びとして残すのか

その思い出の重さと、後の瞬間に感ずる圧力が変化する

 

学びとして残すならば、相手への感謝に進化する

本当はそこに愛の終着点があるように思う

 

2018.11.01  14:13

 

 

 

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2018/11/22   jannmu
タグ: , 自然 , memo , 愛の詩

[saint] 「海老と蟹と貝」

河は悠久の歳月の中で蛇行と洪水による水の直進化を繰り返すのは何故なんだろう?生き物は河の傍で文明を育んできた。

 

 

処女と童貞

少女と少年

そして処女性と童貞性

 

聖なる something 

個の絶対性と他から与えられる相対性

内側と外側

 

失うものと与えられるもの

そもそも失いようがなく持っているもの

 

大きな鏡にしか映らないものがある

 

 

卵の殻をカラスが突く月曜日のゴミ捨て場

飽食の時代に ”もったいない” は忘れ去られて

簡単便利激安を消費して

そこから出る、卵の殻に微かに残った液体ほどの利益でかろうじて食つなぐ

 

現代人は熱帯魚の水槽の底に蠢く

海老と蟹と貝のようだ

 

 

 

還暦と処女性を同居させたい臣民支配者は

異国の大きな鏡を見誤った

異国の大きな鏡を読めなかった

異国の大きな鏡に映る something は開き盲には感じれない

臣民は自らを少数化した

 

2018.11.09 AM

 

 

 

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2018/11/09   jannmu
タグ: , 自然 , 落書き , memo , 愛の詩 , SPACE

”誰かに見られてる”と感じたい人々

2018.10.29

 

”誰かに見られてる”と感じたい人々

~TV脳~

 

 普段は皆同じものを着ている。(ペットボトルごみから機械が作ったナイロンとかレーヨンの混紡)(人が作った綿や絹や麻はそれぞれ特徴がある)(デザインは全部、洋服という労働者用作業着)

 

 生誕や収穫や感謝ではなく、”見られてる”を感じたい人々を集めて商売にしていると、生誕や収穫や感謝を目的にそうしている人々からは、「彼らと相互理解は得られないだろうな」と直感的に思われてしまう。金儲けや、そもそも猿まねして騒ぐだけなのは失礼なのだ。

 

 しかも感じたいだけの人々は、非日常の自分たち同士を見ることもせずに互いを見て見ぬふりをしていて、それは相互理解ですらなく単に仮装行列に居ながら、自分を孤独においていることに気づいてはいないようだ。

 そのことが普段の”抑圧”からの一時避難行為であるというような、自身の内心にでさえ無関心でいる。

 

 初詣に始まってクリスマスにケーキを食べるまで多くの日本人に見られる、中身のない商業イベントに誘導され、消費させられるだけの人々には信仰心はない。

 

 日本の憲法20条では「政治と宗教の分離」を謳っている。

 

 日本を除く先進国のほとんどは、国の宗教を持っているが、日本は上記のために信仰の自由はあるが政治から宗教への関与を禁じている。一般市民もほとんどは信仰というよりも慣習や文化的意味合いでの行事として参加するということのようだ。

 

 政治が宗教に対して関与したり特権を与えてはならないということになっている。

 宗教団体ではなく、個人はいかなる思想信条信仰心を持っていても自由であるし、そういった考え方を持って政治に参加することは自由であるとも書かれている。

 

 国教を持っている国々は古代からずっと戦争を続けている。今も直接的に戦争をしている国は先進国に多い。日本は70年間”直接的”には戦争をしていない。(間接的には疑問だが)

 

 政治と宗教を分離する。

 

 崇高な理念であるが、これを不断の努力で成し遂げようと憲法はその前文で謳っている。

 

 宗教は何かを崇拝するものである。個人であったり偶像であったり、形のないものに対してであったりする。しかしどの宗教も崇拝の対象が固定化されている。ユダヤ教は偶像崇拝ではないといってみてもダビデの星崇拝であり、崇拝の対象を変えることができないものが宗教なのだということもできる。

 国教を持ち戦争を相変わらず続けている国々の潜在意識にある固定化され進歩や議論しない宗教が、無意識に戦争を続けさせているのだとすると、逆に多くの日本人のように行事のあるときにだけ自由に参加したりしなかったりでき、それは慣習としてであり信仰としてではないほうが、後に戦争呪縛に取り込まれる危険性は少なくなる。

 

 個人崇拝であれ宗教は宗教だが、現人神から人間に、政治の都合によってまた現人神にさせられようとしている人権を持たない人が日本にはいて、そのことも憲法に謳われている。このことを私はこの国最大の矛盾であると思う。天賦人権説の天をどこに置いているのかという問いでもある。

 

 ともかく、自分のしている行為に自身が意味を持たずに、流行だからとか、みんながそうするからとか、TVのCMやっていて面白そうだからとか、そういう感情的衝動的行為には必ず商業主義が待ち受けているということと、自分自身の動機や目的を考えずに仮装行列に参加しても癒しにもならず、帰って自分を孤独にするだけだし、普段の精神的抑圧(皆同じものを着て会社で仕事したり学校で勉強したり)からは解放されない。

 解放されないどころか逆に権力によっての規制の口実にされている。

 

 非日常を年に一度の仮装行列に求めても、頭の中が空っぽ(目的がない娯楽目的ですらない)で外側だけの仮装であり、日々日常の抑圧(内側への)から解放されようとしない限りは、あるいは同じものを着て職場や学校に行くことに(居眠りしてもサボっていても目立たない)ある種の安心感を持っているうちは、自分自身を抑圧から解放することはできない。

 

 自分を理解しないと相手を理解できるはずがない。相互理解によってしか世界は平和にならない。

 

 

 さて、誰にでも電車の中や公共の場で”視線を感じる”ことがあるだろう。感じる方向を見ると誰かと目が合う。

 このことをコンピュータで解明できるだろうか。

 誰も解明することができないが、現に事実としてある。誰にでも経験があるだろう。

 

 このことは人間同士だけでなく、動物や昆虫や魚とかカエルとか花や樹木などにも通ずるこは知っているだろうか。

 誰でもこれら自然と疎通できるのに、そのことに気づかないで、孤独と感じ、下らないものに誘導され、それでも満たせない癒やせないでいる。周囲から自然が消えて久しいし、自然をTV画像から、あたかも自分の身近にあるものとして刷り込まれているからなんだと思う。自然は脳みそだけでは感じないもの。

 渋谷や横浜(観光地)に、自然は皆無といっていい。あるようで無い。有るように感ずるのは”記号としての自然が配置されている”だけ。

 

 記号としての自然は、いつもいつもTVやスマホから刷り込まれているから、記号を見ただけで自然を感ずるような気がするだけ。自然から受け取っているものは微かだから、TVやスマホから受ける刺激の強い自然もどきや誇張された自然に慣れてしまった脳は実際の自然からは何も感じない。

 大昔に戻るべきだと言いたいわけではなく、極端にバランスを欠いてしまっていると言いたいのだが、極端にバランスを欠いた社会で生まれ育ち生活していると、そのことを理解することができない。

 特に若者世代をプアジェネレーションと以前書いたのはその為だ。だからと言って彼ら若者にはなんの責任もない。

さてどうするか・・・

 

 

 写真は昨日の夕暮れ時、エリスマン邸裏の斜陽。

 

 写真が下手で伝わらないかもしれないが、この美しさを生きているうちに目に焼き付けておきたいと心底思った。久しぶりにそういう感慨に耽りながら撮影したのだった。

 自分の外側(見た目)は内側から現れるものであり、敢えて装うのは内側を磨くためなんだし、中身のない仮装などなんの意味もなさない。

 内側は感性と言い換えられるが、感性は誰でも磨くことができる。一番の方法が自然と接して感じること。

 TVスマホから受ける強い刺激や毒性の強い刺激で麻痺した感覚を取り戻すこと。

 ここには鳥たちもたくさん住んでいる。心の中で話しかけてみるといい。少しずつ上達できる。誰でもできるはずだ。

 

ジェットコースター

http://honjin-1.com/OtherSide/archives/35

 

 

 

Even In “Revolutionary Countries”, Mass Media Is Still In the Hands of The Right 

 

 

 2018-11-04 19:07:38

 2018-10-29 12:14:17

 

他ブログより転載

 

 

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2018/11/06   jannmu
タグ:自然 , memo

目に見えないもの

目に見えないものを心で感ずる

心で感ずる以前の話として「音と匂いと味」がある

 

現代はエンジン音や電気モーター音と排ガスに溢れていて

耳と鼻を塞がれた時代だ

 

そして目に見えるものだけに極端に依存している

見た目だけ外見だけの人間が幅を利かしているのはこのためだ

 

メディアはそもそも匂いや味を持っていない

人は人工香料や人工甘味料に嗅覚や舌を侵されている

 

そのことに日々違和感を感ずるものは病人とされる

 

ことさらに視覚だけに訴えかけるような表現を駆使して

独裁者は危機感を煽り

独裁者の無能を隠す

 

こういう時代に健常者よりも、ろう者、もう者の感覚が比べ物にならないほど鋭いはずだ

このことを現代社会は偽善で纏いながら無視している

 

 

 

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2018/11/06   jannmu
タグ: , 自然 , memo , うつ状態

scale and ruler

大人の話として、あくまでも大人の話としてだが

自分の心の定規を表現することと

自分以外の単なる定規で表現することの違いを理解できないのは、犬の「お手」とか「チンチン」などの芸と同じで術にはならない

芸などは犬でも猫でもできる

芸術としてあることはどういうことなのだろうか

 

それは愛と憎しみという感情が同答で、しかし裏腹であり表裏一体のものであることを理解しなおかつ制御して、その内なる葛藤を表現として体内から汗の副産物として排泄するもの

そこに権威という衣は全く不要であり、しかし権威という衣は実力に伴って追いかけてくるものだが、振り払うことをづづける作家を芸術家というのだろう

権威にすがりつくことは、その芸術の終焉にほかならない

なぜなら芸術家の持つ術は、その個人にしかできないもののはずだから

つまり新しい価値観の創造だが、時代、100年、1世紀先を見据えてこそ

 

人がだれかを「殺してやりたい」と思うことを私は否定しない

殺意は恋と裏腹で、恋の対象には近づこうとするが殺意の対象からは遠ざかろうとする

移動の自由はそこにもあるべきだろう

 

 

 

 

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2018/09/21   jannmu

セミとホタル

昼間と夜間

音と光

夏だけ

森と水場

個体の叫びと集団のハーモニー

膨張と収縮

リンクする周波数

 

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2018/09/14   jannmu
タグ: , 自然 , 愛の詩 , SPACE
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